カレリアとは?フィンランドのこころの故郷と呼ばれる歴史と文化

カレリアとは?フィンランドの心の故郷と呼ばれる歴史と文化 文化・生活

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 友達の家に行ったとき、Leevi and the Leavingsというバンドの”Pohjois Karjala”という曲が流れてきました。

 この曲名は、「北カレリア」という意味です。

 「知ってる? カレリアは、フィンランド人の”悲願の地”なんだよ」

 友達が言いました。

 「あれ?? カレリアって……?」

 フィンランドの南東、端っこの方にあることは、ぼんやりと知っていました。でも、フィンランドのそんな端っこの土地がなぜ “悲願の地” なのでしょうか?

 フィンランドに行ったことがある方なら、カレリアパイ(Karjalanpiirakka)を知っていると思います。でも、それがどこを指しているのかを具体的に説明できる人は少ないのではないでしょうか。

 そこで、この記事では、そんなカレリアについて、詳しく説明します。

 

なぜカレリアがフィンランド人にとって特別なのか?

カレリアってどこ?|フィンランドとロシアにまたがる広大な湖沼地帯

 カレリア地方は、フィンランドとロシアにまたがるエリアです。カレリアは、フィンランドと同様に湖の多いエリアです。

 カレリアという地域名は、カレリア人という民族に由来します。

 カレリア人は、おおよそ11世紀以降にフィンランド人と分岐した民族です。つまり、フィンランド人とは、兄弟姉妹のような関係です。

 このカレリア人が住んでいるエリアが、元々カレリア地方と呼ばれていたので、その範囲はとても曖昧でした。

 現在は、行政区分によって、決められています。

カレリア地方と領域
カレリア地方と領域

 現代の行政区分上、フィンランド側には北カレリア南カレリアがあります。でも、フィンランド人が心の内に持つ「悲願の地」としてのカレリア(Karjala)は、この二つの地域のみを指すのではありません。

 第二次世界大戦でソ連に割譲されたカレリア地峡1ラドガ・カレリアを合わせた、フィンランドが独立当時に領有していた領域を指します。

 なぜなら、この領域が、フィンランド民族の精神的な故郷のような場所であるからです。

 

 

「こころの故郷」と呼ばれる理由

 フィンランド人がどこから来たのか、正確なことはわかりませんが、フィンランド人の祖先は、ラドガ湖やオネガ湖の周辺を起源にしたと言われています。

 このラドガ湖やオネガ湖があるエリアのほとんどは、カレリア地方に重なっています。

フィンランド人の祖先の地(オネガ湖・ラドガ湖の周辺)
フィンランド人の祖先の地(オネガ湖・ラドガ湖の周辺)

 そのため、特に南カレリアのあたりは、フィンランド人の精神的な故郷のような場所と考えられました。フィンランド独立時には、フィンランド人の民族意識の高揚にも大きく影響したエリアです。

 また、ロシア領の東カレリアも、古いフィンランドの慣習が残っているエリアとされました。独立直後には、東カレリアもフィンランド領として含める、大フィンランド構想が盛り上がったほどです。

 ですが、東カレリアはカレリア共和国としてロシアに残り、フィンランドとは別の道を進んでいます。

 どうしてでしょうか?

 

なぜ分かれたのか?|「大フィンランド」の夢と現実の壁

 その理由はシンプルで、東カレリアは、長い間、常にロシアの文化圏内にあったからです。

カレリア共和国の基本情報

 フィンランドは、長い期間、スウェーデンの統治下にありました。一方で、カレリア共和国は、それよりも長く、ロシアの統治下にありました。

 基本情報を見てみましょう。

カレリア共和国
(東カレリア)
フィンランド
公用語ロシア語
カレリア語
フィンランド語
スウェーデン語
首都ペトロザヴォーツクヘルシンキ
主な宗教ロシア正教プロテスタント
(ルーテル教会)
政治体制連邦体制
(地方行政区画)
議会制民主主義
(主権国家)
面積180,520km2338,431km2
湖の数約6万約18万

 カレリアは古くから、ロシアの文化圏にありました。

 11世紀ごろには、ロシア正教の布教が始まっていて、今でも信仰されています。

 大フィンランド構想も、フィンランドで民族意識が高まった結果、東カレリアもフィンランドに含めるべきだと、思想が少し極端に膨らんだだけで、あまり支持されませんでした。

 では、カレリアの歴史について詳しくみていきましょう。

 

 

カレリアの歴史:スウェーデンとロシアに翻弄された土地

 カレリアは、10世紀以降、スウェーデンとロシアによる陣取り合戦の舞台となりました。

 ロシアにとっては、冬でも凍らない不凍港はなんとしてでも欲しいものでしたし、スウェーデンからすれば、税収源となる港やロシアとの緩衝域として、カレリアは重要な戦略上の要衝でした。

 特に活発化したのは、12〜13世紀以降です。

 ノヴゴロド(ロシアの前身)がフィンランド方面への進出を目論んでいた頃、スウェーデンも、異教徒の改宗を名目にして、十字軍を派遣します。

スウェーデン十字軍(北方十字軍)のフィンランド・カレリア侵攻地図(3回)
スウェーデン十字軍(北方十字軍)のフィンランド・カレリア侵攻地図(3回)

 これを皮切りに、スウェーデンとロシア(名前が時代によって変わります)がフィンランド・カレリア地方を舞台に覇権争いをすることになります。

 特に、カレリア地方は、時代によって、支配者や主権が頻繁に替わった地域です。下の表は、フィンランド・カレリアの領土の変遷を図示したものです。

フィンランド南カレリアカレリア
地峡
北カレリアラドガ
カレリア
東カレリア
1323スウェーデンロシア
(ノヴゴロド)
ノーテボリ条約
1617スウェーデン帝国ロシア
ツァーリ
ストルボヴォ条約
1721スウェーデン帝国ロシア
ツァーリ
スウェーデン
帝国
ロシア
ツァーリ
二スタット条約
1809
フレデリクスハムン条約
フィンランド
大公国
ロシア帝国フィンランド
大公国
ロシア帝国
1812ロシア帝国
(フィンランド大公国)
古いフィンランド
1917
フィンランド独立
フィンランドロシア帝国
1940
モスクワ講和条約
フィンランドソ連(仮)フィンランドソ連
1944
モスクワ休戦協定
ソ連
14世紀以降、フィンランド・カレリアを領土とした国(条約によって分類)

 長い間、スウェーデン領であったフィンランドは、ロシアに組み込まれてからも、奇跡的に他のロシアの領土とは別に扱われており、それが現在のフィンランドの独立につながりました。

 ですが、カレリアはその戦略的重要性から、大国の都合に翻弄されることになりました。

 では、そのような場所がなぜ、フィンランド人の精神的な故郷とされたのでしょうか??

(細かい歴史は別記事「スウェーデンとロシアに引き裂かれたカレリア地方|国境線が語る歴史」で紹介しています!)

 

 

フィンランドの民族意識と叙事詩『カレワラ』

 カレリアがフィンランドの心の故郷とされている理由は、カレリアがフィンランド文化伝承の地だからです。

 

ナショナリズムと『カレワラ』の編纂

 19世紀前半、各々の民族が自分たちの国を持つというナショナリズムの思想がヨーロッパで流行しました。その思想は、学生とともにフィンランドにもやってきました。

 当時のフィンランドでは、スウェーデン語の家庭出身の学生が中心でしたが、ロシア帝国統治下で、スウェーデンを強調することは反乱の意思と取られかねませんでした。

 そこで、フィンランド人としての民族意識を高めようという動きが生まれます。その活動の一つが、エリアス・リョンロート(Elias Lönnrot: 1802〜1884)による『カレワラ』の編纂です。

 

『カレワラ』編纂の舞台:なぜ「東カレリア」の民話が選ばれたのか?

 『カレワラ』を編纂のために、リョンロートは主に東カレリアを旅しました。

 それは、カレリアこそが「いにしえの詩歌の残る土地」である、というZ. Topeliusという人の言葉を信じていたからです。

 1800年代前半と聞くと、現代から見ると、十分昔に思えます。しかし、当時すでに、フィンランド南西部では、スウェーデン的な文化の影響が強く、純粋なフィンランド文化は、あまり残っていないと考えられていました。

Elias Lönnrotの風刺画『Caricature One Man Saved Everything for Us by Running 』by A. W. Linsen, 1847(Wikipedia)Public Domain
Elias Lönnrotの風刺画『Caricature One Man Saved Everything for Us by Running 』by A. W. Linsen, 1847(Wikipedia)Public Domain

 そこで、リョンロートは、カレリアの中でも特に他の文化圏から離れた東カレリアを旅して回りました。

(リョンロートは当時としても、ちょっと歩き過ぎだったらしく、その総移動距離はフィンランドから南極までの距離とほぼ同じだと言われています)

 リョンロートが語り部(吟遊詩人?)から書き取った詩歌をまとめたものが『カレワラ』です。この『カレワラ』出版によって、フィンランド人が古くから固有の文化を持つ民族だと証明されました。

(↑YouTubeに動画もあるので、このカレワラ独特のリズムを聞いてみてください〜)

 

 ちなみに、Kalevalaというメタルバンドもあります。

 

独立運動の精神的支柱となったカレリアニズム

 『カレワラ』の出版によって、フィンランドでカレリアが注目を集めます。

 なにせ、フィンランドの原点が示されたのです。

 フィンランド人の民族意識は、一層高くなり、19世紀後半には、フィンランドやカレリアの民間伝承や景色を題材にした芸術作品や文学が盛んに作られます。

Gallen Kallelaの『Aino Myth』 Triptych, 1891(Wikipedia)Public Domain
Gallen Kallelaの『Aino Myth』 Triptych, 1891(Wikipedia)Public Domain

 これをカレリアニズムといいます。

 シベリウス(Jean Sibelius)が作曲した『フィンランディア』もその一つで、カレワラやフィンランドの歴史を題材にした曲です。愛国心を呼び起こさせるとして、ロシア帝国がこの曲を演奏禁止にしたことで有名です。

 

 

 このように、一躍、脚光を浴びたカレリアですが、受難の時代が訪れます。

第二次世界大戦とカレリア人の移住

 カレリアの歴史の中でも、最も大きな受難の時期が、第一次世界大戦から第二次世界大戦にかけての時期です。

ソ連の安全保障問題と冬戦争

 1917年フィンランド独立後、内乱が落ち着き、1920年に国境が確定してからも、ソ連との間では緊張状態が続きました。

 

 というのも、ソ連にとって、1番問題だったのは、フィンランドの国境がレニングラード(サンクトペテルブルク)に近すぎたことです。

 フィンランドは、独立後、フィンランド大公国時代の領土をほぼほぼ引き継ぎました2

フィンランド大公国の国境線
フィンランド大公国の国境線

 その結果、ソ連にとって第二の首都とも言えるレニングラードは、フィンランド国境から数十kmしかありませんでした。

 そこで、1938年、ソ連のスターリンは、「東フィンランドの土地とカレリア地峡を交換しようぜ〜」と交渉を持ちかけます。

 しかし、フィンランドからすれば、重要な工業都市ヴィープリを含み、国防の重要拠点であるカレリア地峡をソ連に渡すなど、認められるわけがありません。

 フィンランドが拒否したことを受け、1939年11月、ソ連は、「フィンランドが起こした」マイニラの発砲事件(ソ連の自作自演)によって、ソ連軍に死傷者が出たことを理由にフィンランドに攻め込みます(冬戦争 talvisota)。

 カレリアは主戦場となり、42万人ものカレリア人がフィンランド内陸への避難を余儀なくされました。フィンランドは善戦したものの、ソ連に敗北しました。

 カレリア地峡とラドガ・カレリアは、暫定的にソ連領となります。

 

約40万人の避難と故郷の喪失

 続く継続戦争(jatkosota)でも、フィンランドは善戦します。

 物資の足りないフィンランドでは、唯一、フィンランドを支援してくれたナチス・ドイツの援助を受けて、カレリアの奪還に成功します。

 フィンランドはカレリアを取り返したことから、戦争に消極的になります。

 ソ連はフィンランドに回していた戦力をドイツ軍に集中させました。そして、ソ連との戦線で、ドイツが敗北します。

 フィンランドに本腰を入れたソ連にカレリアを再び奪われます。戦線は膠着まで持ち込めたものの、フィンランドには、勝てる未来が見えなかったために、1944年にモスクワ休戦協定を結びます。

 結果として、カレリア地峡とラドガ・カレリアは、ソ連領で確定してしまいました。

 この2つの戦争の結果、約40万人のカレリア人がフィンランド側に移住することになりました。

 

カレリア文化:東西の融合と継承される記憶

 故郷を失った約40万人のカレリア人は、生活の全てをフィンランド内陸部へ持ち込まざるを得ませんでした。この大規模な集団移動によって、カレリアの伝統文化はフィンランド全土へ広がり、国民的な文化として定着していきました。

 元々カレリアは、フィン=ウゴル文化圏ロシアの文化圏が交わることで、独自の文化を生み出した土地です。移住者たちが持ち込んだ文化は、フィンランド人の食卓の味や民族の誇りとなり、故郷の記憶を継承する役割を果たしました。

 

文化の交差点で生まれたカレリアの食べ物

 それは、カレリアを代表する食べ物、カレリアパイにもよく現れています。

 

 カレリアパイは、フィンランド語でKarjalanpiirakkaカルヤランピーラッカといい、英語では、Karelian pie、あるいは、Karelian pirogiと訳されます。pirogiというのは、日本語でわかりやすくいうと、餃子の仲間です。

 つまり、具材を小麦などの皮で包んで、焼いたり、揚げたり、茹でたりする料理です。これは、東欧やロシア系の文化圏でよく見られる食べ物です。

 他の地域では、小麦の皮に包むのが一般的ですが、カレリア地方では、ライ麦の皮を使う文化が独自に発達しました。

 具材は、元々は大麦のお粥が主流でしたが、手に入る食材の変化とともに、19世紀ごろにじゃがいもやソバ、そして東西の交易で手に入ったお米へと変化しました。

 この東西の食文化が融合したパイは、カレリア地方で伝統的に食べられていました。第二次世界大戦後の大規模な移住によって、フィンランド全土へ広まります。このとき、お米のミルク粥をライ麦の皮で包んだものが特に好まれ、カレリアパイ(Karjalanpiirakka)として広く知られるようになりました。

 このように、カレリアパイは、カレリアで東西文化が融合していくことでできた食べ物です。

 その文化背景と独自性が認められて、現在、カレリアパイは、EUの伝統特産品(TSG)として認定されています。

 

 カレリアパイのように、カレリアの危機的状況によって、むしろ広まった文化もある一方で、失われつつある文化もあります。 

歌と祈りの伝統:「カレリアの泣き歌」に代表される口承文化

 カレリアには、「泣き歌」(Itkuvirsi)と呼ばれる伝統文化があります。

 泣き歌は、即興性のある芸術であり、感情の発露であり、宗教儀礼でした。この歌は、結婚式や葬儀といった人生の通過儀礼において、死者との別れを告げ、魂を導く役割を担っていました。

 この泣き歌も、フィン・ウゴル系民族の古い土着信仰とロシアからの正教文化の影響が混ざり合い、独特の文化を形成しました。

 

 サーミ人や他のフィン・ウゴル系の民族と、カレリア人、そしてフィンランド人をつなげるような文化なので、フィンランド人がカレリアに憧れを抱いたのもわかるな〜と思います。

 現在、この伝統は、カレリアの歴史的変遷や近代化の影響で、消滅の危機にあります。私としては、このような地域文化を多くの人に知ってもらって、文化が継続するきっかけになれば嬉しいです。

 

 

まとめ

 いかがでしたか?

 それでは、内容をサラッと振り返りましょう。

内容のおさらい
  • カレリアが精神的故郷とされたのは、フィンランドの民族叙事詩『カレワラ』の舞台であり、カレリア人とフィンランド人の共通の祖先の土地であるため
  • カレリアは東西文化の交差点として文化を発展させた
  • カレリアは大国の戦争に翻弄された地域
  • カレリアパイのように、フィンランド全土に広がり国民食として定着した文化もあれば、泣き歌のように、失われつつある伝統もある

 正直、私としては、カレリアパイの「カレリア」って言葉を聞いて、

「あ〜! あの辺りだな( ー̀ ー́)⁾⁾ウンウン」

ってなってもらえるだけで嬉しいです。

 それでは〜!Moikka!

 

参考文献・サイト

  • Laitila, Teuvo. “Popular Orthodoxy, Official Church and State in Finnish Border Karelia before World War II.” Folklore: Electronic Journal of Folklore 14 (2000): 49-74.
  • 『世界の教科書シリーズ33 世界史のなかのフィンランドの歴史 フィンランド中学校近現代史教科書』 ハッリ・リンタ=アホ、マルヤーナ・ニエミ、パイヴィ・シルタラ=ケイナネン、オッリ・レヒトネン 著、百瀬 宏 監訳 2011 明石書店
  • VisitLakelandFinland.com「The Karelian Pasty Workshop」(https://visitlakelandfinland.com/products/the-karelian-pasty-workshop/)2025.11.17アクセス
  • Iso-Aho, J., Moilanen, J., Murto, M., Natunen, J. P., Niemi, N., Helppi-Kurki, R., & Vehviläinen, K. (2023). Journeys to South Karelia’Culinary History.
  • Wells, C. (2016). Eating Karelia: The geography, history, and memory of Karelian pies. CARELiCA2016, 72-82.
  • Lind, J. (2000). The Russian-Swedish border according to the Peace Treaty of Nöteborg (Orekhovets-Pähkinälinna) and the political status of the northern part of Fennoscandia. Mediaeval Scandinavia13, 100-117.
  • Yamaguchi, Ryoko. “なぜ女性は死者と語ることができるのか──カレリアの泣き歌の美学の規則.” 群像社ホームページ, 2018.
  • 『トゥオネラの花嫁』ウネルマ・コンカ著 山口涼子訳 2017 群像社

 

脚注

  1. カレリア地峡
     カレリア地峡は、フィンランド湾とラドガ湖に挟まれた細長い地域のことです。地峡は、陸に挟まれた狭い海域を海峡というように、水域に挟まれた狭い陸地のことを指します。
    ↩︎
  2. フィンランド大公国
    フィンランド大公国は、たまたまロシア帝国の皇帝が他の地域に注力しなければならなかったことなどの歴史の偶然とフィンランド側からの働きかけがうまくいっていたことから、自治権と独自性を保っていました。 ↩︎

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