スコルト・サーミって知っていますか?
スコルト・サーミは、フィンランドに住むサーミ民族の中で、最もつらい歴史をたどってきた人々と言われています。また、ロシアの勢力圏に近いことから、ロシアの影響を強く受けて、独特の文化を持つ人々でもあります。
この記事では、そんな独自の歴史と文化をもつスコルト・サーミについて、ざっくり網羅的に解説します。
スコルト・サーミとは?
| スコルトサーミの言語別表記 | (サ)Säʹmmlai(サ、サムライ!?) (英)Skolt sami (芬)kolttasaamelaiset (諾)Skoltesamer (露)саа́мы-ско́льты |
スコルト・サーミは、現在のロシア(コラ半島)、フィンランド、ノルウェーの国境地帯にまたがる地域に居住していた東方サーミです。
その地理的な位置関係から、ロシア正教と東方文化(ロシア&カレリア)の影響を強く受けており、独自の文化を育んできました。
| 北サーミ | イナリ・サーミ | スコルト・サーミ | |
| 言語 | 北サーミ語 | イナリ・サーミ語 | スコルト・サーミ語 |
| 生業 | ・大規模トナカイ放牧 | ・イナリ湖での漁業 | ・小規模トナカイ放牧 ・漁業&狩猟 |
| 宗教 | 福音ルーテル派 | 福音ルーテル派 | ロシア正教 |
| 衣装 | 青を基調とする | 黒を基調とする | 女性の衣装が特徴的 (ロシアやカレリアの影響) |
| 伝統工芸 | ・トナカイの工芸品 | ・魚皮の工芸品 | ・ビーズ刺繍 ・ロシア正教のモチーフ |
| 音楽 | ヨイク (Luohti) | 子守唄・民謡など | ヨイク (Leu’dd) |
スコルト・サーミを強く特徴づけるのは、その歴史です。
20世紀に、国境線によって故郷を分断され、多くがフィンランドのSevettijärvi地域に移住せざるを得ない状況になった悲しい歴史があります。
元々住んでいたコラ半島では、スコルト・サーミは居住しているものの、コミュニティが分散しており、若者の都市移住も進んでいます。このことから、Sevettijärviは、現在、スコルト・サーミ語と文化が日常的に生きる世界で唯一の場所と言えるでしょう。
サーミの生活
生業
スコルト・サーミの生業は、漁業、狩猟、小規模なトナカイ飼育、そしてベリーやキノコの収集を組み合わせた、複合的なものでした 。大規模なトナカイ遊牧を主とする北サーミの典型的なイメージとは異なり、漁業と狩猟が特に重要でした。
この多様な生業を持ち、リスクを分散することで、厳しい環境下での生活を支えてきました。
社会:シーダの形成
スコルト・サーミは、他のサーミと同じく、シーダ(Sijdd)という共同体を形成していました。これは、共同体での土地の管理と、狩猟や漁業、採集などの食料確保のために、季節的に移動する共同体でした。
スコルト・サーミのシーダは7つあり、それぞれに冬の村(冬の狩猟に適した場所)がありました。
- Näätämö(ナータモ)
- Paatsjoki(パーツヨキ)
- Petsamo(ペッツァモ)
- Muotka(ムオトカ)
- Suonikylä(スオニキュラ)
- Nuortijärvi(ヌオルティヤルヴィ)
- Hirvas(ヒルヴァス)
このシーダは、構成員の権利を守る役割も果たしていました。
スコルト・サーミのシーダは、ロシア皇帝が発行する公文書を管理しており、これにより、16世紀から漁業権や土地利用権を保証されていました。
食べ物
彼らの食糧は、トナカイ、魚、野生の獲物に支えられていました。トナカイからは肉だけでなく、血液や内臓も余すことなく利用され、肉はスープやシチュー(Bidusなど)にされました。
国境の変遷とスコルト・サーミの移住
スコルト・サーミの生活は、20世紀に大きく変化します。
| 年 | 出来事 | 内容 |
| 1917 | フィンランド独立 | ロシア帝国崩壊を機に、フィンランドが独立 |
| 1920 | タルトゥ条約 | Petsamoがフィンランド領へ |
| 1939〜1944 | 冬戦争 継続戦争 | Petsamoが戦場&ソ連領へ |
1920年、独立したフィンランドがソ連とタルトゥ条約を交わして、Petsamoがフィンランド領になったことが原因です。これにより、元々この地域に住んでいたスコルト・サーミの生活圏は2つに分断されました。
しかし、1938年に始まるソ連による領土交換要求により、事態がさらに変わります。
ソ連とフィンランドの交渉は決裂し、冬戦争に突入しました。フィンランドはかなり善戦しましたが、ソ連との軍事力の差に勝てず、敗北。
つづく継続戦争で、再びフィンランドはソ連に敗北。
これらの戦争で、Petsamoは戦場になった上、ソ連に割譲されることになりました。
戦争中、この地域のサーミ人の多くはフィンランドの内陸部に避難していました。戦争後、ソ連は最初、国境を跨って生活することを認めていたそうですが、方針を変え、帰属を迫ってきたそうです。
スコルト・サーミは、ソ連になる故郷の地に戻るか、フィンランドの故郷よりもかなり狭い土地で暮らすかを迫られました。
当初は、ソ連の故郷に戻る考えが主流でしたが、戦争を終え、兵役から戻ってきた若者が、敵国として戦ったソ連に行くことを嫌がったことから、フィンランドへの移住に考えが変わっていきました。
スコルト・サーミは、正式に、全体としてフィンランドに残ることを選択し、今のSevettijärviに移住することになりました。
ただ、その移住はとても過酷なものでした。そこは、決まった土地を季節的に移動するスコルト・サーミの人々にとって、ほとんど知らない土地だったからです。
「ペッカが生まれて間もない頃、あたしたち一族は長い旅をしたの。小さい子はたいてい死んだわ。食べるものもなかったし、母親たちは乳が出なかったの。途中に家はなかったし、トナカイに引かせた橇にほんの少し家財道具を積んでただけ。父はまだ若かったから何百キロも歩き続けたわ」
『極北の青い闇から ラップ人と暮らした記録』 小野寺誠 1977 日本放送出版協会
その過酷さは、当時を経験した人の口から発せられるからこそ、伝わるものがあります。今では、想像もつかないほど、困難な状況です。もう一つ、引用しましょう。
「コルタ(筆者註:スコルト・サーミ)の子供は途中で悪い水を飲んでたくさん死んだわ。橇を引いていたトナカイを殺して食べながら移動してきたの。赤ん坊のペッカは皮で作ったかごに入れられて、角の大きいトナカイの横腹にくくりつけられていたの。でもそのトナカイも殺さなければならなくて、それからは父がペッカのかごを担いで歩いたわ」
『極北の青い闇から ラップ人と暮らした記録』 小野寺誠 1977 日本放送出版協会
このようなスコルト・サーミの過酷な移住の歴史を、部外者である私が紹介することが良いことなのかは、私自身、難しさに感じています。
他所の人間が、サーミの過去の出来事を「悲劇だ、悲劇だ!」と言い過ぎるのは、おかしいと思いますし、かといって、過酷でもないかというと、そういうこともありません。
そこで、スコルトあるいはスコルト・サーミ自身から見たスコルト・サーミの歴史が垣間見える動画(英語)があったのでご紹介します。
スコルト・サーミの文化
言語
フィンランドの国立保健福祉研究所によると、スコルトサーミ語話者は、300人程度とされています。
その言語の独自性は挨拶にも表れています。
| こんにちは | 丁寧な挨拶 | |
| スコルトサーミ語 | Tiõrv! | Šiõǥǥ peeiʹv! |
| 北サーミ語 | Bures! | Buorre beaivi! |
| イナリサーミ語 | Pyeri/ Tiervâ! | Pyeri peivi! |
| フィンランド語 | Terve! (ラップランド地方) | Hyvää päivää! |
文字からして難しくて、私には全然読めません!!
宗教:伝統的信仰とロシア正教の共存
スコルトサーミは、伝統的に、森羅万象に魂が宿るというアニミズムや多神教、そしてシャーマニズムを信仰してきました。
しかし、16世紀ごろにロシア正教による布教が始まりました。これは、ペチェンガの聖トリフォン(Saint Tryphon of Pechenga)の活動によるものとされています。
彼らがロシア正教に改宗したことは、Sevettijärviの村の中央に、ロシア正教の教会が建っていることからもわかります。
しかし、伝統的信仰も完全に失われたわけではありません。他のサーミと同じように、伝統的な信仰も続けていたものと考えられます。特に、Seiteと呼ばれる聖なる場所への信仰は、20世紀にも続いていることが確認されています(Kjellström 1987)。
1969年にスコルトサーミの家に滞在していた小野寺誠さんの本には次のような記述があります。
老人は祈っているのであった。低い声で何かぶつぶつ口の中で文句をとなえ、一メートルほど積み上げた丸石の塔にむかって呪いをかけているのであった。
〈セイタ……〉話には聞いていたが現実に見るのは初めてである。セイタは、ラップ人の原始宗教の神様である。村民全員のものと、個人のものとがあって、丸石の塔は明らかに老人が自らの手で積み上げた彼個人のご本尊であるようだ。普通はさい銭やタバコをそなえて、トナカイや漁撈、狩猟の豊年を祈願するのだが、ときには呪いや、魔術をかけられたときの魔よけにも使われている。
『極北の青い闇から ラップ人と暮らした記録』 小野寺誠 1977 日本放送出版協会
「お供物は、さい銭やタバコでいいんだ!」と不思議な気分ですが、他の地域のサーミも同様にお賽銭を供えるという話があるので、意外と一般的なようです。
元はトナカイの骨などをお供えしていましたが、きちんと現代対応しているようです。
このように、2つの宗教の共存が行われていることから、ロシア正教への改宗が進んでも、その生活が大きく変化したわけではなかったのではないかと思います。
名前のロシア化
スコルトサーミの方の名前を見ると、その民族背景からか、ロシアの影響を強く感じます。特に、フィンランド系の人々は、苗字に”f”を持つことが少ないので、とても印象的でした。
| 名前の例 (スコルトサーミ) | ・Moshnikoff ・Fofonoff ・Semenoff ・Gauriloff ・Sverloff |
「〜ノフ」とか、「〜コフ」という苗字は、スラブ系だな〜という感じがしますね。わかりやすい例で言えば、ロシア皇帝の家系も「ロマノフ王朝」です。ただ、英語では”v”で表現することが多いです(例:「ロマノフ」→”Romanov”)。
トナカイ飼育
1945〜1949年に、Sevettijärviにスコルトサーミが移住した当時、スコルトサーミが寄付金により購入したトナカイの数は、1500頭以上と言われています。
現在の頭数はわかりません。フィンランド全体では20万頭と言われていますが、どれくらい増えたのでしょうね。
コラム:【実体験】トナカイの頭数を聞くタブー
「トナカイをどれくらい飼っているんですか?」
以前、私は、トナカイを飼育しているというスコルトサーミの男性にこう質問をしたことがあります。
すると、
「トナカイをいくら飼っているかを聞いてはいけないよ」
とその人にたしなめられました。
「トナカイの頭数を聞くのは、あなたの口座にいくらお金がありますか、と聞くようなものだよ」
と教えてくれたのです。
なるほど、と思いました。サーミにとって、トナカイは財産と同じなのです。とてもハッとした瞬間でした。その日のことは、お酒でほとんど覚えていないのに、それだけはしっかりと覚えています(笑)。
音楽:ヨイクの一派leu’dd(レウッディ)
サーミの音楽といえば、ヨイクです。
ヨイクは、サーミのシャーマンnoaidiがトランス状態に入るときに歌われた歌のことです。しかし、その形態は、サーミにより異なります。その中で、特にスコルトサーミが歌うヨイクをleu’ddといいます。
| Luohti | Leu’dd | |
| グループ | 北サーミ | スコルト・サーミ |
| 特徴 | 即興性が高い | 叙事詩的・伝承的 |
参考のために、Leu’ddの歌詞を少し覗いてみましょう。
Kuäss mij-a vet jiâlažiim da
(当時、私たちは生きていた)Sââdd-a-žan O′lssee ǥo källsaž.
(私の父、オルシー)Njeeǯǯaž-am Feäđat nijdd.
(そして私の母、フェアデットの娘)Pue′rr leäi-i, hää′sǩ jeä′ll-e-ded
(生活は良かった)Õllǥšjääu′r ääkka-laa.
(オルシヤウルの岸で)Kuäss leäi Anisiaǥ ääkka-laž.
(祖母のアニシアグがいた)kuäss leäi â′lğğ, hää′sǩes piârr-a-až
(少年たちがいた、素敵な家族だった)nijdd-a leäi vie′rpes piârr-aǥaž.
(娘たちがいた、活気のある家族だった)Dohattõõssâž ä′ldd čiõkk-â-raž.
(千頭のトナカイの群れがいた)Juuǥǥadiim, poradiim
(私たちは良い食べ物を食べ、)oocciisǩ eânai poottâlbeä′l.
(そして時々、半瓶(のお酒)を飲んだ)(AK/0871; text transcription by Elias Mosnikoff and Seija Sivertsen)
Jouste 2017より引用
このように、即興性の高い他のヨイクと異なり、leu’ddには、伝承性と物語性があります。歌い手によっては、歌が何時間も続くことがあるようです。
ヨイクについて詳しく知りたい方は、「サーミの伝統音楽ヨイクを徹底解説:シャーマニズムからアナ雪まで」をご覧ください。
手工芸品Duodji(ドュオッジ)
スコルトサーミのDuodjiの特徴は、ビーズ細工です。
スコルトサーミの帽子やベルトの模様は、他のサーミの錫糸細工とは異なり、小さなガラスビーズを布地に縫い付けることで作られています。装飾には、正教の影響を受けた十字架や教会のモチーフも見られます。
ちょっといい写真がなかったので、雰囲気を知るために、下の動画をご覧ください。
民族衣装についての詳細は、別記事「サーミの民族衣装ガクティ:フィンランドの地域文化を象徴する5種類のデザイン」をご覧ください。
まとめ:スコルト・サーミの歴史と文化
いかがでしたか?
- ロシア正教と東方文化の影響を受けた独自の生業と文化。
- 戦争による故郷の分断と過酷な移住の歴史をもつ。
- Sevettijärviが、文化の中心地。
もし、Inariへ行く機会があれば、ぜひスコルト・サーミの村Sevettijärviにも足を伸ばしてみてください。
サーミ文化に関する関連記事
| アイデンティティとルーツ | ・サーミの文化的ルーツ ・サーミの遺伝的ルーツ ・ラップランドの3つの定義 ・フィンマルクの「フィン」の謎 |
| 伝統と文化 | ・サーミの衣装ガクティの地域別デザイン ・ヨイクの歴史と復興 ・オーロラの民間伝承と信仰 ・サーミの熊の饗宴 |
| 歴史と地域 | ・スコルト・サーミの悲しい歴史と文化 ・スコルト・サーミの多言語能力 |
| 暮らしと生業 | ・サーミの伝統的な住居 |
| 現代と未来 |
参考文献・サイト
- Lehtola, V. P. (2018). ” The Soul Should Have Been Brought along”: The Settlement of Skolt Sami to Inari in 1945–1949. Journal of Northern Studies, 12(1), 53-72.
- “THE SÁMI PEOPLE TRADITIONS IN TRANSITION” Veli-Pekka Lehtola 2004 translated by Linna Weber Müller-Wille UNIVERSITY OF ALASKA PRESS
- Kjellström, R. (1987). On the continuity of old Saami religion. Scripta Instituti Donneriani Aboensis, 12, 24-33.
- Jouste, M. (2017). Historical Skolt Sami Music and Two Types of Melodic Structures in Leu′ dd Tradition. Folklore: electronic journal of folklore, (68), 69-84.
- TALVIKYLÄ Kolttakulttuurikeskus(https://www.kolttasaamelaiset.fi)2025.10.6アクセス
- 『極北の青い闇から ラップ人と暮らした記録』 小野寺誠 1977 日本放送出版協会
- 『フィンランド・イナリサーミによる母語存続運動』水本秀明 2004 北海道浅井学園大学生涯学習研究所研究紀要「生涯学習研究と実践』第6号





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