「私のおばあちゃんは、7つの言語を話せたんだよ〜」
これは、サーミ人の父を持つ人と話したときの言葉です。
とても失礼な話ですが、当時の私は、先住民族は外部と交流があまりない人々というイメージを持っていました。
なので、おばあさんの世代で、7言語も話せると聞いた時はとても驚きました。
そのサーミというのが、スコルト・サーミでした。
私の中に一つの疑問が湧きました。
「なぜ、辺境で自然と共に暮らしてきた人々が、それほど言語に堪能だったんだろう?」
その答えは、彼らの言語能力が生き残るための知恵として不可欠だったという歴史的背景にありました。
その4つの理由を詳しく見ていきましょう。
理由1:生活圏が国境をまたいでいたから
残念ながら、おばあちゃんの話せる7言語の内訳は聞き忘れてしまいました。
ですが、地理的に考えて、おそらく、ロシア語、フィンランド語、ノルウェー語、スコルト・サーミ語、スウェーデン語に加えて、他のサーミ語かカレリア語あたりを話せたのではないかと思います。

おばあさんが属するスコルト・サーミは、スコルト・サーミ語という独自の言語を持ち、現在のフィンランド、ノルウェー、ロシアのコラ半島にまたがる地域に暮らしていました。
隣接する国々の人々、また周辺のサーミ語やカレリア語を話す集団との日常的な接触が、多言語能力を必要とする土台となったと考えられます。
理由2:生存権を守るために交渉が必須だったから
スコルト・サーミの社会はシーダ(Sijdd)と呼ばれる共同体が基盤でしたが、その生活は外部の社会と深く結びついていました。
彼らは、16世紀から続くロシア皇帝発行の公文書(Gramota)を管理することで、漁業権や土地利用権を保証されていました。
つまり、彼らにとって生存に必要な権利を守るためには、公的な交渉と文書理解が必須でした。
外部の支配者と交渉するために、その国の言葉を習得することは、シーダ(共同体)の生存権を守るための最も重要なスキルでした。
このように、スコルト・サーミの人々は、かなり古い時代から、外部の施政者とも関係を持っていたようです。彼らは決して外部から閉ざされた人々ではなく、むしろ公的な文書と他言語を駆使することで、自らの権利を積極的に確保してきた開かれた共同体だったのです。
理由3:他文化を柔軟に取り込む強かさがあったから
元々、スコルト・サーミは、森羅万象に魂が宿るというアニミズムや多神教、そしてシャーマニズムを信仰してきました。
そこに入ってきたのが、ロシア正教です。
彼らのロシア正教への改宗は、ペチェンガの聖トリフォンの布教活動により16世紀ごろに始まりました。しかし、伝統的信仰も完全に失われたわけではありません。他のサーミと同じように(Kjellström 1987)、伝統的な信仰も続けていたものと考えられます。
巨大な外的圧力の中で、スコルト・サーミはロシア正教を柔軟に取り入れながらも、アニミズムの伝統的信仰(セイテなど)を捨てずに共存させました。
この「外部の要素は受け入れるが、核となる自文化は守り抜く」というしなやかな精神的な土壌こそが、新しい言語や文化に対しても抵抗なく開かれ、多言語習得を可能にした要因と言えるでしょう。
理由4:国の狭間で翻弄された歴史があるから
スコルト・サーミの生活スタイルに大きな変化が訪れたのは、20世紀のことです。
原因は、ロシアの政変とフィンランドの独立でした。
| 年 | 出来事 | 内容 |
| 1917 | フィンランド独立 | ロシア帝国崩壊を機に、フィンランドが独立 |
| 1920 | タルトゥ条約 | Petsamoがフィンランド領へ |
| 1939〜1944 | 冬戦争 継続戦争 | Petsamoが戦場&ソ連領へ |

フィンランドの独立とスコルト・サーミの土地の分断
ロシア帝国の一部であったフィンランド大公国が独立し、1920年にソ連とタルトゥ条約を結んだことで、ノルウェー・ソ連・フィンランドの3国の境界にあるPetsamoという地域がフィンランド領になりました。
これにより、スコルト・サーミの居住域は、ソ連とフィンランドの2つの国に分断されることになりました。このとき、ソ連側に生活の基盤があった家族はソ連に、フィンランド側にあった家族はフィンランドにそれぞれ分かれました。
新天地Sevettijärvi(セヴェッティヤルヴィ)へ
ところが、これだけでは終わりませんでした。
1939年、冬戦争が勃発したのです。これに続く、継続戦争(1940年〜)でフィンランドがソ連に敗れたことで、Petsamoはソ連領となりました。
戦争でフィンランド内陸部に避難していたスコルト・サーミは、伝統的な土地(ソ連)に戻るか、このままフィンランドで生きるかを選択せざるを得ない状況になりました。
長老たちの考えは、元の土地に戻ることでした。しかし、戦場でフィンランド側として戦った若者たちの「敵であるソ連では暮らせない」という意見を尊重し、フィンランドを選択しました。
フィンランド政府は、他のフィンランドのサーミと調整しながら、スコルト・サーミのために新たな土地と家を用意しました。それは、SevettijärviというInari北東部の土地です。

遊牧をしながら生きると聞くと、知らない土地もへっちゃらだと感じるかもしれませんが、少なくともサーミの遊牧は、決まった土地を季節ごとに変えて生活することで、知らない土地に行くことではありません。
なので、このときのスコルト・サーミの苦労は、並々ならぬものであったそうです。
元の生活を何度も失い、施政者の思惑一つで運命が変わる環境で、彼らは一つの言語に頼る危うさを痛感していました。多言語能力は、不安定な時代を生き抜くための術であり、コミュニティの命運を握る交渉の手段だったのです。
まとめ:サーミのおばあちゃんはなぜ多言語を操れたのか?
冒頭の疑問に戻ります。
「なぜスコルト・サーミのおばあちゃんは多言語に堪能だったのか??」
その理由は、国境が交差する地で生きるための知恵であり、共同体を守るための必須スキルだったと考えられます。
- 地理的・日常的必要性:3つの国境が交差する生活圏だったため。
- 歴史的・公的必要性:外部の支配者と交渉し、権利を維持する必要があったため。
- 精神的柔軟性:他文化を受け入れ、自文化と共存させる強かさがあったため。
- 生存戦略的必要性:戦争と国境変更で翻弄され、生き残る術として言語能力が不可欠だったため。
2022年、ロシアがウクライナに侵攻しました。
フィンランド政府は2023年、ロシア国境を封鎖しました。戦後、国境を自由に行き来する権利を与えられていたスコルト・サーミの自由は、再び国境により遮られてしまいました。
これまでのフィンランドの経済発展は、ソ連やロシアの経済があってのものと言われています。ロシアの戦争がフィンランドやサーミの暮らしに、今後どのような影響を与えるか、注目です。
※この記事は、史実に沿って書かれていますが、多言語性に関しては私の意見であって、サーミ自身に確認したものではありません。
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参考文献・サイト
- Lehtola, V. P. (2018). ” The Soul Should Have Been Brought along”: The Settlement of Skolt Sami to Inari in 1945–1949. Journal of Northern Studies, 12(1), 53-72.
- “THE SÁMI PEOPLE TRADITIONS IN TRANSITION” Veli-Pekka Lehtola 2004 translated by Linna Weber Müller-Wille UNIVERSITY OF ALASKA PRESS
- Kjellström, R. (1987). On the continuity of old Saami religion. Scripta Instituti Donneriani Aboensis, 12, 24-33.
- TALVIKYLÄ Kolttakulttuurikeskus(https://www.kolttasaamelaiset.fi)2025.10.6アクセス


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