こんにちは。ズッキーです。
フェルメール巡礼のために、デルフトにやってきました。
前回の記事では、『デルフトの眺望』のモデル地に行きました。今回は、そこから市街中心地に向かいます。

デルフトの街を歩く
『デルフトの眺望』のモデル地を出発して、新教会に向かいます。
途中で、デルフトの古い街並みと運河の景色を楽しみます。

運河では、オオバンが子育ての最中でした。
私はオオバンの弁足(ヒレ足)がきっちり見えて、大興奮!
オランダは水鳥との距離が近いのが素敵です。

巣材には、ビニルのゴミなども使われていて、水鳥の逞しさを感じます。

それから、偶然VOC(オランダ東インド会社)のロゴを見つけて、さらに興奮。前回の記事でも触れましたが、デルフトは、オランダ東インド会社の支社があった町です。

他にも、古そうな建物があって、よくわからないながら、写真に収めました。

橋を渡って、コーヒーショップのある怪しげな通りを抜けて、目的地に向かいます。

フェルメールのアトリエ兼自宅 Oude Langendijk
「ふ〜ん。フェルメール、ここに住んでたんだ〜。ほへ〜」

着いたのは、フェルメールのアトリエ兼自宅があったとされる場所。マリア・ファン・イェッセ教会(Maria van Jessekerk)の裏手です。教会が建てられたのが、19世紀のことなので、この教会が建つ200年くらい前に、フェルメールが住んでいたということでしょうか。


現地には、案内板が設置されています。建物の2階部分がアトリエだったそうです。たしかに、映画『真珠の耳飾りの少女』でも、アトリエは2階にあった記憶があります。

しかし、ない建物を見てもよくわからん、というのが正直なところ。
私としては、妻が満足してくれれば、それでいいのですが、もう少し形が残っていたら嬉しかったなと思いました。
マルクト広場はフェルメールゆかりの場所だらけ
新教会は、アトリエの向かいにあります。と同時に、マルクト広場にも面しています。マルクト広場は、マーケット(market)の意味なので、市場が開かれる街の中心地です。

もう少しでお昼の時間だったので、お昼を先に食べるか、新教会を先に見るかを悩んでいるうちに、とりあえず、マルクト広場のフェルメール関係のスポットを巡ることに。
マルクト広場には、新教会だけでなく、市庁舎、フェルメールの実家(メーヘレン亭)跡もあります。
しかし、残念なのが、この教会の正面にある像。国際法の父、グロティウスの像だとは気が付かず、スルーしてしまいました(フーゴー・グロティウスはデルフト出身)。
デルフト市庁舎 Stadhuis

デルフト市庁舎がどうフェルメールと関係あるのかというと、妻が調べたところでは、ここはフェルメールが結婚した場所だそうです1。どうやら、ヨーロッパでは、市庁舎で結婚式をすることはかなり一般的なようです。
ちなみに、オランダ・メディア in de buurt の2025年の記事によると、現在でも、デルフト市民はこの古い市庁舎で結婚式を挙げることができるそうです(2025年の記事で費用503〜2321€。一部無料の時間帯あり)。
旧メーヘレン亭 Herberg Mechelen
マルクト広場には、フェルメールが9歳の頃に住み始めた家(宿屋兼酒場)である、メーヘレン亭(メッヘレン亭とも)の跡地があります。
(それにしても、オランダ風俗画家ヤン・ステーンも酒場を経営していましたが、画家と酒場は関係が深いのでしょうか?? 高い画材代を稼げたのかな??)

現在はHouse of Vermeerというお土産屋さんになっています。中に入りましたが、普通のお土産屋さんでした。

通りに面した側面の壁には、写真のような表記が。
現地に行ったときは、「本当だ! “Vermeer” って書かれてる!!」と興奮しましたが、家に帰ると、ここに何が書かれていたのか気になるので、調べてみることに。
OMTRENT DEZE PLAATS
HEEFT HET HUIS ‘MECHLEN’
GESTAAN. OCTOBER 1632
WERD GEBOREN
JAN VERMEER
DE SCHILDER(訳:この場所のあたりには、『メヘレン(Mechlen)の家』が建っていました。
1632年10月、画家ヤン・フェルメールが生まれました。)
おい、ふざけるな。
フェルメールの生家は、「空飛ぶ狐亭」だろうが!?
わざわざ誤解を招くような表記を残しやがって。
……おほん。あら、失礼。
これは私の言葉ではありませんのよ。誰かの落書きかしら。私は上品な生まれでいやがりますので。オホホホホ。
デルフトの新教会 Nieuwe kerk
フェルメールとデルフト新教会の関係

デルフトの新教会 Nieuwe kerkは、1632年にフェルメールが洗礼を受けた場所です。
デルフト新教会は、カトリック教会として建てられて、宗教改革を経て、カルヴァン派の教会になりました。当時のオランダは、フェリペ2世率いる旧教国スペインへの反発から、新教国として独立したので、その流れに乗るような形になっています。
もちろん、国民の中には、カトリックの人もいて、フェルメールの奥さんがまさにそれ。
フェルメールも結婚する際に、カトリックに改宗しています。
(ちなみに、新教会の「新」は新しいという意味であって、新教会=新教の教会という意味ではないです)
デルフト新教会の見学
フェルメールの『デルフトの眺望』にも描かれた新教会の塔は、登ることができます。絵の中の世界に入り込むことができるわけです。
ヨーロッパの塔あるあるで、結構歩くので、気持ちと体力の準備は必要です。

新教会と旧教会はセットチケットが売っていますので、入り口でお金を払って、チケットをもらいましょう。
なので、チケットは絶対に失くさないようにしてください。絶対にです!!

塔へ登るには、お土産屋さん横の階段を登る必要があります。ロッカーがあるので、荷物は置いていって大丈夫です。

軋む木の階段。
数えたくもないほどの段数。
狭いトイレの個室のような幅の階段を進んでいきます。
妻はひいひい言いながら、塔を登っていました。
塔好きの私は興奮と階段への恐怖で、イヒヒヒヒと笑いながら、塔を登りました。(|||°Д°)コワイ
途中、フェルメールの時代に作られた鐘が展示されている場所で休憩をしながら、上に進みます。
(すれ違う人に「あとどれくらい登るの?」と聞かれたり、聞いたりします)

さらに登って、登れるところまで行っちゃいましょう。

疲労と引き換えに、塔の上から一望できるデルフトの景色。
屋根の色が統一された、ヨーロッパらしい古い街並みがかなり残っているので、見応えばっちりです。オススメです。

こういうのは、昔の地図と比べながら見ると、面白いです。

地図真ん中の広場の上にあるのが、新教会ですね。見比べると、結構昔の形が残っているのがわかります。
その後、地上に戻って、教会内部を見学しました。


イタリアやスペインのカトリック教会などと比べると、質素な感じがしますね。
カルヴァン派といえば、質素を良しとし、聖書で殴るスタイル。神の偉大さ(豪奢さ)でぶん殴るスタイルのカトリックと比べるのも間違っている気がします。
むしろ、木の温もりが落ち着きを与えてくれるでしょう。
オランダには、木材となる木がほとんどなかったはずなので、ここに使われているのは、ライン川流域やマース川流域、北欧の木材でしょう。
そう考えると、フィンランドとのつながりも感じます。
(←むりやり(っ°Д°)っ)

教会内部には、あのオラニエ公ウィレム1世2のお墓もあるので、見逃さずにどうぞ。
オラニエ公ウィレム1世はフェリペ2世率いる旧教国スペインに立ち向かった人物。
オランダ建国の父として、今も国民に敬意を抱かれています。
ちなみに、この教会に墓を作る人は少なかったようなのですが、オラニエ公の墓が作られるようになって、人気が出たそうです(と旅のメモに書いてある)。
国際法の父、グロティウスのお墓もあったようなのですが、見落としました。どこにあったんでしょうね。
まとめ
- フェルメールのアトリエ兼家:マリア・ファン・イェッセ教会(Maria van Jessekerk)裏
- メーヘレン亭(フェルメールが9歳の時から住んでいた家):マルクト広場。標識あり
- 市庁舎(結婚の記録が残る場所):マルクト広場
- 新教会:マルクト広場
実は、マルクト広場には、フェルメールの結婚後の家とか言われたりする場所がもう一つあるのですが、このときは見逃していました。
それはまた後ほど。
次は、フェルメールの生家でカフェと洒落込みます。
それでは〜。
参考文献
- 『フェルメール全点踏破の旅』朽木ゆり子著 集英社新書 2006
- 『一冊でわかるオランダ史』水島治郎監修 河出書房新社 2023
- 『フェルメール –– 謎めいた生涯と全作品』小林頼子 角川文庫 2008
- 『フェルメールへの招待』朝日新聞出版 2012
- 『アムステルダム物語 杭の上の街』ヘルマン・ヤンセ著 堀川幹夫訳 2002
- 『フェルメール論: 神話解体の試み』小林頼子著 八坂書房 2008
- “In the footsteps of Johannes Vermeer: wander through the Delft of the ‘Sphinx’” Vermeer Delft centrum 2026.9.12アクセス(公式のフェルメール巡礼地として参考にした)
脚注
- フェルメールは市庁舎で結婚したって本当?
2008年のマイナビニュースでは、
1653年4月5日、フェルメールはカタリーナ・ボルネスと、この市庁舎で結婚式を挙げたことが記録に残っている。今も昔も、ヨーロッパでは市庁舎で結婚式をすることが一般的だ。フェルメールはデルフト市庁舎に婚姻届を提出して結婚式を執り行い、その後デルフト郊外でささやかな披露宴をあげたという。
と書かれています。
しかし、アムステルダム国立美術館の年表には、
“Vermeer marries Catharina Bolnes in the Catholic church of Schipluiden, a village near Delft.”
「フェルメールはデルフト近郊のスヒップライデンのカトリック教会でカタリーナ・ボルネスと結婚した」
とあります。この2つは、矛盾した内容に見えます。権威性から見れば、アムステルダム国立美術館の情報の方が正しそうです。となると、フェルメール夫婦が市庁舎で結婚式を挙げたというのは、ウソなのでしょうか。
私は、両方とも本当のことだと思います。
もう一つの資料を見てみましょう。
小林頼子の『フェルメール論』の補足資料の中に、
1653年4月5日と4月20日
デルフトの結婚記録に「マルクト広場に住むヨハネス・フェルメールと同所に住むカタリーナ・ボルネス」の記載あり。余白には、「1653年4月20日、スヒップライで承認」とある。
と書かれています。これらの記録から、1653年の4月20日はスヒップライデンの教会で婚儀を執り行ったことは確実です。
ですが、この資料には、1653年4月5日の日付も一緒に書かれています。ということは、おそらく、4月5日にも婚礼を行ったと考えていいのではないでしょうか。そして、それは市庁舎で行った……と考えるとしっくりきます。フェルメールの専門家ではないので、確かなことはわかりませんが、私は市庁舎とスヒップライデンの教会の両方で結婚式を行なったと捉えるのが正しいのではないかと思います。
↩︎ - オラニエ公ウィレム1世は事実上の国王??
オラニエ公ウィレム1世に関するWikipediaなどの記述をみると、「事実上の初代君主」と書かれていることがあります。「事実上の」とわざわざ言及されるのは、オラニエ公ウィレム1世はオランダ国王に即位したことがないからです。彼の方は、国王になることを強く望まれていましたが、もう少しで承諾するかというときに、1584年デルフトに於いて、フランス人カトリック教徒に銃で撃たれて殺されます(デルフト・プリンセンホフ博物館には、当時の銃弾が残っています。時間あれば行きたかった!!)。その後、オランダは国王を置かず、連邦議会を置き、そのまま成り行きでネーデルラント連邦共和国になります。
ちなみに、オランダに国王が生まれたのは、時代が下って、19世紀。
ナポレオンが瞬く間に現れ、瞬く間に消えたのち、1813年オランダ・ルクセンブルクから成るネーデルラント王国が誕生しました。ややこしいことに、ネーデルラント王国初代国王もウィレム1世なのです。世界史ひぃぃぃ!! ↩︎




コメント