なぜロッテルダムには面白いデザインの建築が多いのか?|観光客的視点で見るオランダ建築史

なぜロッテルダムには面白いデザインの建築が多いのか?|観光客的視点で見るオランダ建築史_表紙 ベネルクス

 こんにちは、ズッキーです。

「オランダのデザインといえば?」

と聞かれたら、何が思い浮かぶでしょうか。有名なのは、ミッフィーちゃんです。黒いくっきりした線の内側に色を塗っただけの、シンプルで可愛らしいデザイン。 

 ところが、現代建築になると、途端にデザインが尖ったものになります。中でも、ロッテルダムには、まるで鉛筆を地面に突き刺したような奇抜な集合住宅や、「どうしてこうなった??」と思ってしまうような前衛的なデザインが数多あります。

「なんで、こんなに奇抜なデザインの建物が平然と街に居座っているのん??」

 わからないので、調べてみることにしました。素人ながら、理解したところによると、合理性と公共性と個性の間で、最適なバランスを探った結果、今のぶっとんだデザインに落ち着いたようです。

 そして、合理性、公共性、個性という三つの価値観が最も極端な形で現れた街が、ロッテルダムです。

 

ロッテルダムに奇抜な建築が多い理由
  • オランダの歴史・文化的影響
    • 合理性を重視するオランダ文化
    • 住宅や都市を公共財と考える伝統
  • オランダの建築史からの流れ
    • 19世紀末〜20世紀初頭:伝統からの脱却
    • 20世紀半ば〜:均質化しすぎた公共住宅
    • 1990年代:スーパーダッチの台頭(個性の見直し)
  • ロッテルダムの事情
    • 第二次世界大戦による破壊
    • 経済的な都市計画の希求

 順番に見ていきます。あくまで、調べて感じた私の印象なので、絶対的なものではなく、一つの意見をして捉えていただければ、と思います。

 

 

オランダの建築デザインの基盤

 思うに、現在のオランダの建築の根底にあるのは、合理性公共性です。

  • 合理性:無駄な装飾を排して、丈夫で快適な暮らしを提供するということ
  • 公共性:みんながいる空間をデザインすることで、生活を良くしていくこと

 この2つの価値観を生み出したのが、オランダの歴史と文化です。

 

オランダの歴史・文化的影響

 オランダの歴史・文化に強く影響を与えたものを2つ挙げるとすれば、過酷な環境と宗教です。

 

オランダの宗教の影響|カルヴィニズム

 オランダのデザインは、キリスト教のカルヴァン派の影響を受けているとよく言われます。

 カルヴァン派というのは、伝統的なカトリック教会(旧教)が権威的になり、キリスト教本来の教えから逸脱していったことに反発して生まれた宗派(新教)の一つです。カトリックの権威たる教皇ではなく、聖書をこそ信ずるべきだという考えを持ちます。

ローマの絢爛なカトリック教会

 教会の建築を見ると、その違いがよく表れています。カトリックの教会では、派手な装飾や豪華さで圧倒されますが、オランダのカルヴァン派の教会では、シンプルな空間が生み出す静けさで人々を敬虔な気持ちにさせてくれます。

オランダのデルフトにある質素な新教教会

 宗教とデザインの関係を表現するのは難しいのですが、私の理解が正しければ、カルヴァン派的デザイン(カルヴィニズム)とは、

「素朴さを積み重ねて、豊かな生活をつくること」

と目的にしたデザインだと考えています。

 過度な装飾の代わりに、素材の質や形、機能性を求めることで、生活に自然の光や空気を取り入れて、内面の豊かさを手に入れようという宗教的理念が、オランダのデザインの基礎を作っているのではないかと思います。

 

オランダの民主主義的土台|建築の公共性

 もう一つ、オランダのデザインを支えているのは公共性です。公共性というのは、わかりやすくいえば「一軒の建物が、街の一部を担っている」という考えです。

 そして、その公共性が生まれた理由は、その過酷な歴史にあります。

 オランダの国土の多くは、干拓地(ポルダー)です。4分の1が海水面より低いこの地では、土地を水から守るために、住民全員が協力して排水作業をしなければ生き残れませんでした。「皆で話し合い、皆で実行する」。この共同体のルールこそが、オランダの民主主義の原点です。

 また、この干拓地は、人工的で極めて合理的な直線の区画に切り分けられました。 

Kaart van de polder Prins Alexander, 1941
計画的に区分されたポルダーの地図:Kaart van de polder Prins Alexander, 1941(Public domain

 この、機能を優先し、半ば数学的に空間を割り当てるというポルダーの精神が、オランダの建築にも根付いていると思います。

 

まとめ1:カルヴァン派の合理性とポルダーの公共性

 近世以降のオランダには、

  • 装飾より機能性を重視する合理的な思考
  • 社会で協力して問題に対処する基盤

が根底にあったということです。

 ここで、鋭い読者の方ならお気づきになるでしょう。

「いや、それならもっと落ち着いたデザインになるのでは??」

 

 そうなんです。

 オランダの建築は、別に最初から主張の激しいデザインだったわけではありません。

 

 

オランダの建築史からの流れ

オランダの古い建築

 オランダの建築は、他のヨーロッパの国の影響を受けて発展しました。

 古い街並みが残る、首都アムステルダムの街をみると、ゴシック建築、ルネサンス建築、古典主義建築、ルイ14〜16世様式など、さまざまな年代の建築様式をみることができます。

 破風の見た目(家屋正面の壁)は、一つ一つデザインが異なり、とても個性豊かです。家の主は、その時代に合わせた装飾で、家の破風を飾りました。

 アムステルダムの王宮には、ペディメント(正面の三角形の屋根)がある古代ローマ風の建築。雨の多いオランダの建築に、乾いた地中海風の屋根をつけるのは、合理的ではありませんから、ただの飾りです。

 と同時に、カルヴァン派の影響か、近隣のベルギーなどの都市と比較すると、地味と言える色合いで、王宮すら地味。アムステルダムの共同体の一部に国王すら組み込まれていたような雰囲気です。

 個性はあるものの、質実剛健な印象です。

 

1901年住宅法(Woningwet)と社会住宅

 さて、ぐわーんと時代は進んで、19世紀半ば〜20世紀初頭。

 オランダでは、19世紀の急激な産業革命で、よりよい生活を求めて、住民が都市に流入し、都市部の住宅環境が過密化・劣悪化したことが問題となっていました。

 つまり、住宅需要が高まり、価格が高騰。住宅の過密化で衛生状態が悪くなっており、労働者が清潔な住宅に満足に住めない状況でした。

 そこで、オランダ政府は1901年に「住宅法」を制定しました。

 これは、低所得者でも支払える清潔な家が、国民にいきわたるようにするための法律です。政府から独立した非営利の住宅協会という組織を国が認定し、質の高い住宅を長期的に提供できる仕組みをつくりました。

 こうした住宅は、社会住宅と呼ばれます。日本における社宅や公宅をイメージするとわかりやすいでしょうか。

 これにより、今までのように、お金を持っている人が、伝統的で美しい家を作るのではなく、伝統を脱却した、新しいスタイルの家が模索されることになります。

 

 

オランダの近代建築の始まり

 ここで、少しだけ時代を戻します。

 というのも、住宅法と別の流れで、オランダの建築に変化が起きていたからです。

 その変化のきっかけの一つ。

 オランダにおける近代建築の先駆けは、カイパース1(P. J. H. Cuypers)でしょう。カイパースといえば、アムステルダム国立美術館アムステルダム中央駅を設計した建築家です。

カイパース設計のアムステルダム中央駅

 カイパースは、建築にゴシック建築の合理性や構造性を持ち込みました。わかりやすくいえば、ゴシック様式の建物を近代的な鉄骨構造で支え、飾りより使いやすさ、美しさより構造としての配置や強固さを重視したということです。

 

 この流れをくんだのが、ベルラーへ(H. P. Berlage)です。

"Beurs van Berlage": Former Amsterdam stock exchange building by architect Hendrik Berlage (1856-1934), Damrak 277, Amsterdam. photo by Mtcv(Wikipedia Commons)
“Beurs van Berlage”: Former Amsterdam stock exchange building by architect Hendrik Berlage (1856-1934), Damrak 277, Amsterdam. photo by Mtcv(Wikipedia Commons

 ベルラーへは、アムステルダム証券取引所の設計をした人物で、オランダ建築を近代建築に昇華させました。つまり、様式美を削り、合理的かつ機能的な建築をつくりました。

 見た目も合理化し、様式を削ぎ落としました。

 ベルラーへが合理化を進めた一方で、1910年代には、「アムステルダム派」という合理性の中に自己表現・感情表現をいれた建築も生まれます。こちらは、それまでの表現を打ち破ったという意味では現代的ですが、より芸術よりの建築でした。

Het Schip in Amsterdam. photo by Jabericloebe (Wikipedia commons)

 ただ、形態を重視するあまり、水漏れがあったりして、施工が悪いことがしばしばあったようです。そのせいでしょうか。次にご紹介する「デ・ステイル」の建築家の一人(J. J. P. アウト)は、アムステルダム派の建築を個性に走りすぎだとして批判しています。

 

ダッチ・モダンの象徴:「デ・ステイル」

 こうした流れの中、ヨーロッパで第一次世界大戦が勃発。

 この大戦後、伝統からの解放を求める動きが世界的に流行しました。

 有名どころでいえば、ココ・シャネルは、衣服のデザインから女性の苦しさからの解放を目指しましたし、建築家のル・コルビュジエは、鉄筋コンクリートを取り入れて、間取りを自由に、ドイツの学校バウハウスは、工業化によって、デザインを一般大衆に解放しました。

 そうした動きはオランダでも起きました。芸術家集団「デ・ステイル」(De Stijl)2が新造形主義を掲げて、新たな暮らしをつくることを目指しました(ダッチ・モダンとも言われる)。

 その理念は、次のとおり。

デ・ステイルは、水平線・垂直線と三原色というもっとも基本的な造形要素によって「普遍的」な表現を打ち立て、それに基づく新たな住環境を生み出すことを目指していた。

『オランダのモダン・デザイン リートフェルト/ブルーナ/ADO』より

 デ・ステイルの代表作としては、ユトレヒトの家具職人・建築家のリートフェルト(Gerrit Thomas Rietveld, 1888 – 1964)が建てた『シュローダー邸』が有名です。

シュローダー邸(Rietveld Schröderhuis)photo by Luis Guillermo R. (Wikipedia Commons)

 育児は乳母に任せるのが上流社会で一般的だった時代。

 シュローダー夫人が、子供のプライバシーを守りつつ、3人の子供と一緒に暮らしたいという願いを叶える形で作られたのが、『シュローダー邸』です。

 原色と直線で建物を作りながらも、デザイン性と高い機能性を両立させています。現代日本でも最先端のデザイナー住宅に見えるくらい、オシャレ建築です。

 

スーパーダッチと建築家たち

 20世紀前半、「デ・ステイル」が活躍したわけですが、今度は、第二次世界大戦が勃発。

 戦後の復興による工業発展と近代化は、標準化、工業化、反復による質の安定をもたらすと同時に、多様性という質(面白さ)を失わせました。

 つまり、合理性と公共性があって快適だけど、個性があまりない、均質な建物が増えたわけです。

 また、1980年代のオランダは、経済状態が悪く、社会福祉を見直し始めた時期でした。オランダ政府はこの状況に対処するため、差異を出すための活動に投資を行いました。

 

 そこで、活躍したのが、スーパーダッチ(Super Dutch)です。

 スーパーダッチとは、1990年代前後に世界中で「面白い」建築をつくった、オランダの建築家たちの建築やデザイン活動のことです。

 建築家たちは近代建築を解体し、現代のニーズに合わせた建築に再構築しました。

 こうして生まれたのが、斬新・前衛的でありながら、豊かな都市生活をデザインするスーパーダッチという動きです。彼らは、建物単体ではなく、都市の生活を、強烈な個性でデザイン・再設定しました。

 合理性・公共性に傾いた天秤に、個性を加えてバランスを取り直したわけです。

 

 

まとめ2:オランダ建築史と個性と合理性・機能性のバランス

 私のイメージでは、オランダ建築における、個性と合理性・機能性のバランスは次のように変遷しました。

個性合理性・機能性
伝統的オランダ☆☆★ ☆☆★
近代オランダ建築☆★★ ☆☆☆
アムステルダム派☆☆☆ ☆★★
デ・ステイル☆☆★ ☆☆☆
20世紀後半オランダ建築☆★★ ☆☆☆
スーパーダッチ☆☆☆ ☆☆☆

 つまり、オランダの個性の塊のような現代建築は、合理性・機能性に傾きすぎたバランスを戻そうとした結果生まれたのだと思います。

 まあ、ちょっと個性に振りすぎな気もしますが。

 

 さて、ここで最初の疑問に戻ります。

 じゃあ、なぜロッテルダムに「面白い」建築が多いのでしょうか。

 

 それは、ロッテルダムの建築が破壊されて、まっさらな状態になったからです。

  

 

ロッテルダムの歴史的背景

 第二次世界大戦のときの話です。

 1940年5月14日、ナチス・ドイツは、ロッテルダム爆撃(Rotterdam Blitz)を行い、わずか15分で100トンの爆弾を投下。2万5000棟以上の建物が破壊されました。

 ロッテルダムは、更地となった街の状態を「白紙の状態(Tabula rasa)」と捉え、都市開発の絶好の機会だと考えました。

 空爆の4日後には、ロッテルダム市は、建築家ヴィッテフェーン (Willem Gerrit Witteveen, 1891-1979) を都市計画担当者として、任命しています。

 

空襲以前の市有地の拡大

 こうした迅速な動きができたのは、それ以前から、都市開発を計画していたからです。

 というのも、第二次世界大戦以前から、ロッテルダムでは、人口の急激な増加(1860〜1900年の40年間で3倍)に合わせて、都市の買収を進めていたようなのです。

  • 周辺自治体の併合(Cf. Bevolkingsgroei en expansie
    • 1886年:デルフスハーフェンの吸収合併
    • 1895年:クラリンゲン、シャルロイス
    • 1914年:ホーク・ファン・ホラント村や周辺自治体(計2,933 ha)
  • 土地の買収(Cf. Het Land van Hoboken
    • 1924年:ファン・ホーボーケン家の土地(56 ha)

などを行い、ロッテルダム市全体の面積は、1860年の約750 ha→1930年約1万 haへと成長。市有地の拡大を進めました。この市有地の割合については調べてもわかりませんでしたが、ロッテルダム市が都市開発の主導権を握るために、市有地の取得を進めていたことは確かだと思います。

 

第1の都市計画:ヴィッテフェーンの計画

 1940年に都市計画を任せられた建築家ヴィッテフェーンは、歴史的なつながりを重視し、戦前の都市に近づけようとしていました。この計画では、伝統的な美意識のもとで、ロッテルダムのアイデンティティを高めようとしていました。

 しかし、計画は立てたものの、戦時中のドイツによる規制や食糧供給の関係で、計画は進みませんでした。

 その間に、だんだんと再建に対する考えが変わります。

 ビジネスマンの団体「クラブ・ロッテルダム」や建築家・芸術家の団体「オプボウ(Opbouw)」は、伝統性より経済的機能性を求めて、この計画に反対します。

 建築家ヴィッテフェーンは、過労で病んでしまい、都市計画をファン・トラア(Cornelis van Traa, 1899-1970)に引き継ぎます。

 

第2の都市計画(the Basic Plan):ファン・トラアの計画

 1946年、ファン・トラアは、ヴィッテフェーンの計画を基礎としながら、より自由な都市計画を立てました。

 その特徴は次のとおり。

  • 機能によって都市を区画分け(仕事・娯楽・住宅の場所を分けた)
  • 設計を決めすぎない(将来の変化の余地を残した)
  • 建物ではなく交通網を中心とした都市構造(移動のしやすさを重視)
  • グリッド状の街路(現代的な建築の許容)

 これが、ロッテルダムで、現代的かつ挑戦的な建築ができる土台となります。

 たとえば、復興後の有名な建築に、ラインバーン商店街(Lijnbaan, 1953)があります。Jon van den BroekとJacob B. Bakemaの設計で、道路を完全に歩行者用にしたことから、世界最初の歩行者天国などと言われています。

 

 

ロッテルダムのスーパーダッチ建築群

 こうして、歴史の連続性が途切れたことで、ロッテルダムは、建築家が伝統に縛られずに、設計を試せる実験場となりました。都市がそれを積極的に推進したことで、建築士側も存分にその能力を発揮することができました。

 ここでは、その例をいくつか挙げていきます。

 

キューブハウス(Piet Blom, 1984)

キューブハウス(Piet Blom, 1984)

 キューブハウス(Kijk-Kubu; Cube houses)は、Piet Blomの設計。黄色いキューブを傾けて、複数連ねたようなデザインです。見た目ではわかりにくいですが、3回建ての建物です。

 中がミュージアムとなっているので、見学できます。ホステルとして泊まることもできます(▶︎stayokay公式、▶︎Booking.com)。ぜひ。

 

マルクトハル(MVRDV, 2004 – 2014)

マルクトハル(MVRDV, 2004 – 2014)

 マルクトハル(Markthal)は、あのMVRDVの作品(どのっ!?)。マーケットホールという名前の通り、市場を内包した空間でありながら、人が住む家でもあります。食べる、遊ぶ、住むといった機能が詰まった建物です。

 室内市場であり、アパートでもありながら、背の高いガラス窓のおかげで、中にまで日光が届く面白い空間です。

 

 

エラスムス橋(Ben van Berkel, 1986 – 1996)

エラスムス橋(Ben van Berkel, 1986 – 1996)

 エラスムス橋(Erasmusbrug)は、Ben van Berkelの作品。

 写真で見ると、普通の吊り橋に見えますが、よく見ると、面白い形をしている橋。特に、向こう岸からみると、膝立ちの棒人間みたいな形で面白いのですが、そちらからの写真は撮っていません。

 ぜひ、現地に行って確かめてみてください。

 

ロッテルダム中央駅(team CS, 2014)

ロッテルダム中央駅(team CS, 2014)

 ロッテルダム中央駅(Rotterdam Centraal)は、team CS(Benthem Crouwel, MVSA, and West 8のチーム)による作品。

 トラムを降りたあたりの駅前広場で写真を撮ったら、駅のツッパリがデカすぎて、写真に入り切りませんでした。

 写真で見るより巨大です。

 

nhow ロッテルダムホテル(OMA, 2014)

OMA show Rotterdam hotel
nhow ロッテルダムホテル(OMA, 2014)

 OMAといえば、最近で言うと、江戸東京博物館を手がけた建築家グループ。

 同じ系列の nhow Amsterdam RAI hotel も手がけています。

 二つのホテルを見る限り、積み木を積み重ねたような建物が得意なのかな、なんて思っています。

 

まとめ3:戦争とロッテルダムの建築

 ロッテルダムに限れば、この地に面白い建築が多い理由は、主に2つ。

  • 街が、空襲後の更地を都市計画の舞台として捉えたから
  • 敢えてゆとりを持たせた都市計画が「面白い」建築を生む余地を作ったから

  

 

おまけ:フィンランド建築との違い

 ここまで見てきたように、オランダの建築は「都市空間を創造する」という役割を果たしています。

 フィンランド狂いの私からすると、都市設計というと、建築家・デザイナーのアアルト(Alvar Aalto)を思い浮かべてしまいます。アアルトといえば、セイナヨキ(Seinäjoki)やユヴァスキュラ(Jyväskylä)、Rovaniemi(ロヴァニエミ)の都市計画に関わった人物として有名です。

 そうやってみると、近代建築が盛んなフィンランドとオランダ。少し似ているのですが、完成した姿はどこか異なります。

 というわけで、その違いを勝手に比較してみました。

オランダ現代建築フィンランド現代建築
自然に対する考え制御された自然ありのままの自然
宗教的背景カルヴァン派:客観的合理性を重んじるルター派:個人の信仰と自然の調和
造形幾何学的・数学的有機的直線・曲線
素材剥き出しのレンガ・ガラス・スチール自然な木材・ガラス・レンガ
空間理念均質な光と効率的な空間利用自然光と自然素材による癒し
代表建築WoZoCoなど
(Amsterdam)
Muuratsalon koetaloなど
(Jyväskylä)

 あくまで私が考えるふわっとしたイメージですが、オランダの建築は、人工的な空間の美しさ、一方のフィンランドは、自然との調和による美しさを目指している印象があります。

 皆さんも機会があれば、この2つの国の建築を見比べてみてください。

 

 

結論

 ロッテルダムの面白い建築は、ただ目立つための建物ではありません。

 オランダ社会が長い歴史の中で追求してきた、

  • 合理性
  • 公共性
  • 個性

の三つを同時に成立させようとした結果、生まれたものなのだと思います。

 一見すると「なんでこんな形なの?」と思う建物も、その背景を知ると少し違って見えてきませんか?

 この記事を読んだ後で、オランダの建築に、少しでも興味を持ってもらえたなら、幸いです。

 それでは〜。

 

 

参考文献

 

 

脚注

  1. Cuypersの発音
    「カイパース」と表記されていることが多いようですが、Geminiさんによると、アウト(J. J. P. Oud)の本で書かれている「キュイペルス」のほうが近いとのこと。「カイペルス」と書かれることもあります。英語読みとオランダ語読みで、読み方が異なっているのでしょう。 ↩︎
  2. デ・ステイル(De Stijl)
    『デ・ステイル』という雑誌、および、それを刊行した建築家・デザイナーグループ。J. J. P. アウトを中心として、有名な建築家・デザイナーが集まった。 ↩︎

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