[台湾道教①]☯日本人が神様になった!?台湾・道教のディープな世界ι(`ロ´)ノ

台湾の道教表紙 台湾

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 こんにちは。ズッキーです。

 突然ですが、台湾では、日本人が神様として祀られていることを知っていますか?

 台湾で「義愛公」という名で祀られている神様なのですが、元の名前は、森川清治郎さん。明治時代に日本人巡査だった方です。阿里山茶で有名な阿里山のある嘉義縣という地域で1923年ごろから信仰され始めたそうです。今では、台湾北部にも信仰圏を広げているみたいです[1]。

 この義愛公を祀っているのが、道教という宗教です。

 日本人が神様になった、という話を聞くと、台湾の道教に興味が湧いてきませんか。深掘りしてみたくなるのも仕方がないですよね。ですよねっ!!⸜( ꒪౪̮꒪ )⸝

 私のオタク・センサーが台湾道教に対して、ビンビンに反応しています!( 厂‘ω‘ )厂

 もはやビンドュンドュンです!ฅ( ●오● )ฅ

▶︎道教ってなに??(もう少し道教初心者向けの内容)

▶︎台湾初めてで道教寺廟に行って何もわからなかった話(実体験)

▶︎台湾道教②|台湾の民間信仰と道教の発展(次の話)

 

台湾の宗教構成

 ひとまず、台湾の道教を見ていくにあたって、台湾の基本的な情報をご紹介したいと思います。

 というのも、

台湾の民間信仰とは、大雑把にいって、昔からこの島に移住した漢民族の、豊かな地方色に彩られた、日常的な信仰なのである。

『台湾の道教と民間信仰』劉枝萬 1994 風響社

とあるように、台湾の道教には、台湾にいつ、どこから移住してきた人々かがその信仰内容に強く関わってくるようです。

 そこで、まずは台湾の民族構成についてご紹介します。

 

台湾の民族構成

 台湾の民族構成は、大きく漢民族とオーストロネシア系の先住民族(「原住民」と称される)に分かれます。その九割以上が漢民族で、先住民族の人口はわずか数%です。先住民族は2005年時点で、12の民族が認定されています[2]。先住民族は日本の台湾統治時代には「高砂族」とも呼ばれていました[3]。

 一方、漢民族に関しても、漢民族だからとすべてをひとまとめに見てもいいわけではありません。台湾に渡来してきた時期とその出身地域が異なるためです[2], [3], [4]。

 漢民族は大きく分けて2つのグループに分けられます。本省人外省人です[2], [3], [4]。

 本省人は、第二次世界大戦以前(1945年以前)にすでに台湾に入植していた人々です。これに対し、外省人は、第二次世界大戦後(1945年以降)に国民党とともに台湾に移住してきた人々のことを指します[2], [3], [4]。本省人が台湾語閩南みんなん1)を話すのに対し、外省人は北京語中国語)を話す上、総人口の1割にも満たない少数派でもあることから、両者の間には戦闘に発展するような様々な軋轢が生じたそうです[2], [3]。この二つの言語は異なる言語なので、話しても通じません[3]。私も華南から来た中国人と華北から来た中国人が中国語だと通じなくて、日本語が一番通じるからと、日本語で話しているのを見たことがあります。

 そして、本省人にも、さらに小さなグループがあります2。このグループは出身地によって、福建系の漢族閩南みんなん福佬人とも)と広東(客家はっか)系の漢族に分けられます[2], [3], [4]。こちらはこちらで、二つのグループの間で、言語も習慣も全く異なっており、同じ漢族だからと言って、必ずしも近い存在であるとは限らないようです。その証拠に、かつては郷土意識の強い移民同士の軋轢が発展して、「械闘かいとう」と呼ばれる大規模な抗争がよく発生していたようです[2], [4](結構血みどろの戦いだったらしいですฅฅ°́Д°̀)))。

 本省人の移住時期は、第一期から第四期まであるとされています[2]。

 第一期は、明朝末の混乱期3(17世紀前半〜中頃)、つまり、清(女真族)が中国の北方より侵略し、戦乱を避けた中国大陸の人々が南に追いやられていく時期です[2], [5]。この頃、オランダ(東インド会社)が台湾に勢力を持っており4、オランダの開発計画に乗る形で、清の南下を避けて、大陸から台湾に人が移動したようです[2]。台南にオランダの要塞などが残っているのは、このころの名残です。そして、この頃は台南側が中心エリアでした。

 第二期は、鄭成功5(別名:国姓爺、1624〜1662)とその一族が台湾での覇権を握っていた3代23年間です(1660〜1683)[2], [5]。この時期の台湾を鄭氏台湾と呼ぶことがあります。鄭成功は明の遺臣で、台湾を反清勢力の拠点とするため、移住・開拓を積極的に進めました[2], [4], [5]。このため、清は1661年に遷界令を出して、沿岸部の住民を奥地に強制移動させる対策をとり、鄭氏との交通・交易を禁止しています。この頃も台南側がメインです6。このころの話は、世界史の教科書にも載っていますが、私も名前聞いたことあるな〜くらいでした。覚えていたら、かなりの世界史好きだと思います。

 第三期は、清の康熙帝(聖祖, 在位1661〜1722)による台湾併合以降です(1683)[2], [5]。清と明の長い戦乱による混乱と北からの移住人口増加による生活苦(食糧不足?)から、沿岸地域の住民が台湾や東南アジアに移住しました[2], [5]。広東地域に住んでいた客家系の人々が台湾に移住をし始めたのもこの時期です[2]。この時期に、台南平野から開拓が南北に広がります。ちなみに、台湾で今の台湾烏龍茶に繋がる、チャノキの栽培が始まったのはこの第三期から第四期にかけて7だと言われています[6]。

 第四期は、アヘン戦争(1840〜1842)から清末にいたる時期です[2]。アヘン戦争後のイギリスとの南京条約(香港の割譲等)に始まり、アロー戦争(第二次アヘン戦争)後に締結した天津条約(1858)、北京条約(1860)で、台湾の台南と淡水を含む11港を開港しました(九竜半島の一部割譲等の条約内容も含む)[5]。この開港によるチャノキの開放(??)がヨーロッパのお茶の需要とマッチして、世界に注目され、台湾でのお茶栽培が活発化するきっかけとなります8[6]。直接宗教とは関係ありませんが、世界50数カ国に輸出された茶産業[6]が、台湾の都市発展と移民流入、ひいては宗教発展に寄与しなかったとは思えません。1887年には、清朝も台湾の地理的重要性を認識して、福建省から台湾省が分離しました[4]。たしか、お茶栽培(台湾北部がメイン)による経済発展から、この時期に台湾の中心地が台北に移動します。

↓台南がなぜ中心地になったかについてはこちら!

▶︎台湾の中心はなぜ変わった??古都・台南の興亡と台北への変遷>>

 これが、1895年に台湾が日本統治下に入るまでの漢民族系移民の歴史の流れです。台湾の統治期間は、日本を含めると、オランダ38年間、鄭氏23年間、清朝212年間、日本51年間です[4]。北海道の開拓時代でも同じですが、早期に入植した人々(福佬人)は場所の良い肥沃な平野に入り、後から入植した人々(客家人)は丘陵や台地に移住したようです9[4]。北海道の山の方に住む人に、「うちの家は(平野の人に比べて)開拓で入ったのが遅かったんだろうなあ」という話を聞いたことがあります。

 

台湾の宗教構成

 ここでは、台湾の道教以外の宗教も含めた宗教構成について、概略的に見ていきます。正直、ここは少し冗長な説明になるので、グラフを見てイメージをつかんだら、読み飛ばしていただいても問題はないと思います。

『現代台湾宗教の諸相 台湾漢族に関する文化人類学的研究』五十嵐真子著 2006 人文書院より。台湾内政部統計処2004年のデータを元に作成したとある。台湾内政部のホームページにアクセスし、最新のデータを手に入れようとしたものの、理由不明だがアクセスができなかったため、文献内の古いデータを使用した。施設数・信者数が1%未満の宗教は見やすさの観点から円グラフから除外。寺廟と教堂は元から分類されていたため、採用した。寺廟が道教・仏教・儒教系の元々漢民族が持っていた信仰、教堂が外来の宗教と私は解釈した。寺廟系施設数は11,383件、信者数は950,774人。教堂系施設数は3,159件、信者数は578,785人。

 台湾で最も主要な宗教は道教です。本省人が8割以上にもなる台湾では、福建・広東の漢族によってもたらされた宗教が民間宗教の大部分を占めています[3]。日本統治時代には、道教は抑圧され、仏教寺院が多く建てられたものの、道徳教育のために道教の書物が使われたこともあり、今でも統計上の数値で半分近くを占めています[3]。

 次いで多いのは、基督教(プロテスタント)と天主教(カトリック)です。カトリックは1626年にスペインの聖ドミニコ教会により伝来したのが始まりであるそうです(上の説明でいう第一期。詳しくは脚注3参照)[3]。その後の日本統治時代には活動を制限されたそうですが、戦後に大陸の混乱時に迫害された宣教師が移ってきたこともあり、隆盛して現在では、全体の4分の1以上を占めているようです[3]。

 それにしても、オランダに追い出されるまでのたったの16年の間に教会を作って、今でも信徒がいるなんて、当時のスペイン人、仕事できすぎです!! 16年の仕事で、400年分の業績を残してしまうなんて!! 

 仏教については、1690年に台南に開元寺というお寺が建てられていて、これが最初期に台湾に伝来した仏教だと考えられているそうです[3]。その後、日本統治時代には、日本からも様々な宗派がやってきて、お寺が建立されました。そして、キリスト教と同じく、戦後、中国大陸の混乱で多くの高僧が移ってきたそうです。キリスト教でも言及した中国大陸の混乱ですが、当時中国に存在したあらゆる宗教に対して起きたものだと思われます。私の記憶が正しければ、マルクス主義では、宗教を好まない思想があるので、共産主義にもその流れがあったものと思われます。初期の中国共産党では、宗教はアヘンであるとして駆逐しました[7]。現在の中国は、宗教に対して寛容な政策をとっています。

 回教は、イスラム教のことです。回というのはウイグル人のことを指すと聞いたことがあります。なので、回教というのは、ウイグル人の宗教という意味ですね。台湾の回教は、マレーシア経由で伝来したそうです[3]。日本統治時代に牛や羊の屠殺が禁止されたため、苦労したみたいです[3]。かわいそう。

 天理教は、日本の奈良県出身の宗教です。私の友達の家は天理教でした。個人的な天理教の印象ですが、子供の時、夕方、家に帰る時間になると、ドンドコ太鼓を叩き始めるイメージがあります。宗教というと人によっては忌避感もあるかもしれませんが、友達の親には、「大きな声で挨拶してね!」としか言われたことがないです。小学校低学年の時の話なので、天理教は「何やら分からないが、大きな声で挨拶する」宗教だとインプットされました。今もそれ以外はよく知りません。理解が浅くてすみません。でも、宗教関係なく、挨拶は大事ですね!!

 代表的な宗教に関しては、これくらいでしょうか。一貫道については、のちの項目で触れようと思います[8]。バハイ教については、私は知らない上、この記事の本筋には関わらないので、ここでは書きません [9]。台湾の信仰に関しては、たとえば、自身が仏教を信仰していると思っていても、実際には、道教寄りの信仰をしていることは珍しくないため、どこまで信用していいものかわかりません[2], [4]。この数字は目安程度に捉えると良いのではないかと思います。

 

寺廟の呼称について

 寺廟という分類が出てきたので、一応台湾における道教の寺廟の呼称を紹介しておきたいと思います。以前の記事で、道教のお寺にあたる建物は、観、宮、廟と呼ばれるとご紹介した(その本にはそう書いてあったという言い訳をしておきます)のですが、実際には、もっとたくさんの呼称があるようです。

 詳しくは、下の表をご覧ください。道観と呼ばれる建物は、北京の全真教総本山の白雲観のように、道廟の中でも大きいものを指すので、数としてはあまり多くないのではないかと思います[4], [10]。本文中には神仏と書いてあるので、仏教の建物も含まれているものと思われます。ただし、上の円グラフにもあるように、寺廟系の建物のうち、道教の建物は80%弱、仏教の建物は20%弱なので、その割合を頭において表をご覧になると良いかと思います。

順位呼称件数
1宮(宮廟)2765
2寺(寺廟)750
3658
4443
5248
6殿188
7禅寺89
875
959
1039
『台湾の道教と民間信仰』劉枝萬 1994 風響社 数字は正確ではないので大まかに見れば良いとのこと。

 劉さん(1994)が書いている通り、現在はこれよりも寺廟の数が増えていると思われます。あくまで目安として考えてください。

 

宗族の考え方

 宗教というものの根底には、その民族の生活や家族のあり方が反映されているものだと考えられます。ここでは、漢民族の人々が帰属する家族の単位について少しだけ説明します。これには、宗族という考え方が関わっています。

 宗族とは、

単一の姓を名乗り、男系の一人の祖先に連なる男性たちと彼らの未婚の姉妹、配偶者からなる集団ー[Freedman 1971:11]

『現代台湾宗教の諸相 台湾漢族に関する文化人類学的研究』五十嵐真子著 2006 人文書院より

 端的にいうと、漢族における父系の系譜集団のことです[2], [11]。言い換えれば、核家族の逆バージョンで、親戚の結束を固めた親戚集団のことです。

 五十嵐さん(2006)は、約400人の宗族集団、約2500人の宗族集団、約1万3000人の宗族集団のそれぞれが同一の村に住む事例を紹介しています[2]。一番小さな400人のグループですら、私がイメージしている親戚付き合いのレベルを遥かに超越しています。

 これらの宗族集団では、同一の先祖を祀る祖廟を共有しており、いくかの世帯が集まって暮らし、それがさらに集まって、一つの村を形成しているようです[2], [11]。宗族内では共有の財産を持ち、老人や貧困者への援助、科挙の支援などに当てられます[2], [11]。現在でも、台湾の強大な宗族では、奨学金制度を設けているところもあると言います[11]。

 ここまでは、同じ村内の話でしたが、分派して他の場所に移り住んでも同族としての関係は保たれるようです。

 これをわかりやすく説明している文章があったので、ご紹介します。

宗族制という男系血縁共同体、つまり男の先祖から次の嫡子(男子)、さらに次の男の子という具合に、同じ陳という姓というものが連綿と続き、その一族は先祖をちゃんと祭る、そしてその一族はどこに行こうともお互いに助け合う。中には奨学金のようなものを出して、一族の中の優秀な若者を科挙に合格させる、そして進士にならせる、頭のいい者は一族の中からどんどん官僚にならせていく、そういうことによって陳なら陳の一族を繁栄させていく、そういう風な考えがある

『道教と東南アジア華人社会』坂出祥伸著 2013 東方書店

 このように、漢民族が同一姓を持つ一族としての繁栄をとても大事にしている、ということがわかります。このことをとてもよく表しているのが、宗親会や聯宗会と呼ばれる組織です[11]。これは世界的に同性の人が集まってグループとなった、相互扶助組織です。例えば、マラッカ蘇氏聯宗会や劉氏世界宗親会などがあります[11]。中国大陸は除く、台湾や東南アジアなど各地に存在し、自衛的な意味と経済的な利益のために組織されていると考えられています[11]。

 また、儒教でよく言われる《孝》の概念についても、この宗族の形成に深く関わっているとされています。

『孝経』の首章「開宗明義章第一」にいう。「わが身体は手足はもとより髪の毛から皮膚にいたるまで、すべて父母から受けたものだ。これらを軽々しく傷つけないようにする。これが孝の始まりである。わが身を修め正しい道を行い、その名を後世にかがやかし、そうすることで父母の名を世に知れわたらせる。これで孝が完成されるのである。いったい孝とは親によく仕えることが始まりであり、(成長すれば)よく君に仕えるものであり、最終目的はわが身を修めることである」と。

『道教と東南アジア華人社会』坂出祥伸著 2013 東方書店

 ヘロヘロリンな感じで、のんべんだらりと生きてきた私のような、超ゆとり人間から見ると、圧迫感すら感じてしまう文章ですね。ですが、言っていることは要するに、「親に感謝しながら、親の価値が上がるくらい、自分を高めるつもりで頑張ろうね!」ということだと受け取りました。ですが、この考えが漢民族の根底にあるとすれば、中国人が世界中で頑張っている理由も理解できる気がします。

 坂出さん(2013)は、この宗族というシステムは、漢民族の思想・行動の根底をなしているものだと述べています。彼らが信仰する道教・儒教・仏教といった宗教の根底にあるものとして見てみると、面白いのではないかと思います。

 もしかしたら、中華街が世界中のどこにでもあり、中国人があらゆるところで逞しく生活している力の根源は、この宗族にあるのではないか、と感じました。私も留学して一年間海外にいたことがありますが、少数派というのは、何かと心細いものです。どこに行っても帰れる場所や頼れる先があるということほど心強いものはありません。親戚同士で助け合うネットワークは、中国という広大な大陸で生き残るために形成されたのかもしれません。

 まあ、ただの想像ですけどね!

 

まとめ

 結構頑張ってまとめたつもりなのですが、わかりやすく書けているでしょうか。内容を欲張りすぎたかもしれないです。マニアックな話なので、わかりづらかったらごめんなさい!(;≡д≡;i)

 観光に行くときに、少しだけでいいので、興味を持ってもらえると嬉しいです。٩(ˊᗜˋ*)و

 

まとめ
  • 台湾には神様になった日本人がいます!
  • 台湾は出身地や移住時期が異なる人がたくさんいる多様な土地でした!
  • 現在の台湾には、歴史が詰まっている!
  • 漢民族には、苗字による繋がりを大事にする文化がある!?

 

▶︎台湾道教②|台湾の民間信仰と道教の発展(次の話)

 

参考文献

  1. 『道教の神々と祭り』野口鐵郎・田中文雄編 2004 あじあブックス 大修館書店
  2. 『現代台湾宗教の諸相 台湾漢族に関する文化人類学的研究』五十嵐真子著 2006 人文書院
  3. 『2時間でわかる図解 台湾のしくみ』 林志行 2000 中経出版
  4. 『台湾の道教と民間信仰』劉枝萬 1994 風響社
  5. 『世界史B』尾形勇ほか 2006 東京書籍
  6. 『台湾茶の選び方・愉しみ方 極める台湾茶』池上麻由子著 2005 グリーンキャット
  7. 『台湾の宗教と中国文化』酒井忠夫編 1992 風響社
  8. Wikipedia 一貫道(https://ja.wikipedia.org/wiki/一貫道)2025/2/26アクセス
  9. Wikipedia バハイ信教(https://ja.wikipedia.org/wiki/バハイ信教)2025/2/26アクセス
  10. 『日本と道教文化』 坂出祥伸著 2010 角川選書
  11. 『道教と東南アジア華人社会』坂出祥伸著 2013 東方書店

 

脚注

脚注図1台湾初期の都市・拠点:①オランダ人の占領経路は膨湖に始まり、台南を占領。スペイン人が基隆・淡水を占領すると、そこを追い出した。②鄭成功は台南を拠点にした。③清の支配下で、台南、鹿港、台北万華(萬華・艋舺)が貿易港として栄えた。④清末の天津条約で、淡水、台南が欧米に向けて開港。
脚注図2福佬人と客家人の出身地域:福建省と広東省を肌色で色掛けした。福佬人の移住元である福建側の泉州と漳州は濃い橙色、客家人の移住元である広東側の恵州と潮州と嘉応州(梅州)は薄い橙色で表した。台南と淡水はいらなかったかも。
脚注図3福佬人と客家人の出身地域と割合:劉枝萬は、1926年の調査データで人口の数値は当てにならないが、割合は対して変わっていないだろうと述べている。そのため、割合を円グラフで図示した。福佬人の出身地域(福建)は濃い橙色、客家人の出身地域(広東)は薄い橙色で示した。福佬人は客家人の5倍以上で、本文で円グラフで示したものと比べて、それほど大きく変化は感じない。
  1. 閩南(びんなん)語ともいいます。福建のびんに対して、広東をえつと呼ぶことがあります。 ↩︎
  2. 本省人について
    原住民は含まれたり、含まれなかったりしますが、ここでは参考にしている文献にしたがい、含まれない方を採用しています。 ↩︎
  3. 明朝末の混乱[5]
    1616年太祖ヌルハチ(1559〜1626)が明の朝鮮出兵(豊臣秀吉の朝鮮侵攻に対する李氏朝鮮への援助のこと。豊臣秀吉は朝貢貿易を敷く、明の冊封体制に不満を持っており、明の征服を最終目的としたとされるが、正確なことはわかっていなかったはず…)に乗じて中国東北部を支配して、後金を建国。1636年太宗ホンタイジが国号を清と改めます。1644年、華北で起きた大規模な農民反乱で、その指導者、李自成が北京を占領し、明朝を滅ぼします。清軍はこの李自成を倒して、北京に政権を樹立しました。豊臣秀吉の朝鮮出兵が間接的に、女真族(のちの満州族)の一大帝国、清を生むきっかけになったかと思うとバタフライ・エフェクトのようで面白い。
    ↩︎
  4. オランダによる台湾統治(脚注図1参照)[4]
    オランダの支配は38年間。最初は、膨湖を占領しました(1622〜1624)。1624年、安平にゼーランジア城(Wikipediaでは安平古堡)を築城しました。1642年、基隆・淡水を占領していたスペイン人(1626〜)を駆逐。1653年にはプロビンジヤ城というお城も造っています(Wikipedia 赤崁楼せきかんろうより)。オランダは、1662年に鄭氏台湾に追い出されるまでの期間、福建の移民を使って、植民地経営を行いました。なお、鄭氏台湾もオランダに引き続き、台南を本拠地としたようです。かつて、オランダがいた痕跡は今も膨湖島や台南の城跡に残っています(『地球の歩き方 台湾』など各種ガイドブック)。なお、安平はかつては港として栄え、イギリスやドイツの領事館などが置かれていましたが、河川からの土砂の堆積で入江が埋まってしまったため、昔より内陸にあるようです(『アジア海道紀行』足立倫行 1995 文藝春秋)。
    ↩︎
  5. 鄭成功と道教の伝来[3]
    以下、斜字部分は本文引用。

    台湾で道教の活動が活発になったとされるのは、十七世紀である。当時台湾では、オランダ人を駆逐した鄭成功が台湾を拠点に清を倒し、明を復活させるべく「洪門会」を創設した。この動きが大陸で察知され、大陸での道教に対する取り締まりが強化されたため、鄭成功が拠点としていた台南を中心に、大陸から逃れてきた道教の廟宇が数多く建設され、今に至っている。
    前後の記述からこの時期に台南で道教の廟が多く建てられたことについては、その通りだと思われます。また、道教が活発になった時期については、他の書籍とも整合性がとれているので、概ね正しいのではないかと思います。ただし、「洪門会」に関しては詳しい記述がないので、不明です。 ↩︎
  6. なぜ台南が中心地だったのか?(『客家 歴史・文化・イメージ』飯島典子・河合祥尚・小林宏至著2019 現代書館)
    オランダはいざ知らず、台湾開拓初期に台南が台湾の中心であった理由は、台湾海峡を流れる海流が関係しているようです。つまり、中国から船に乗ると、台南に辿り着きやすいのだろうと考えられます。
    ↩︎
  7. 台湾の茶栽培の始まり[6]
    嘉慶年間(1796〜1820)に柯朝という人によって武夷山茶(福建省の烏龍茶)が伝来したと言われます。
    ↩︎
  8. 台湾茶の世界的注目[5], [6]
    アヘン戦争後の天津条約によって、台南・淡水が開港すると、台湾はお茶の産地として注目されました。というのも、アヘン戦争は、お茶を高額で購入していたことによる貿易赤字が原因の一つとして起きた戦争です(『お茶の世界の散歩道: お茶には愛される理由がある』森竹敬浩 2009など)。清の支配の及んでいない地域でのお茶の栽培は、お茶の価格を下げたいヨーロッパ人にとっては、切実な問題でした。イギリス人貿易商のジョン・ダドは、福建南部から良質な茶苗を調達し、台湾の茶農家の栽培を推し進め、優良な茶葉を選び高級茶として輸出することに成功しました。1869年、フォルモサ・ティーとしてニューヨークに輸出され、その後世界50数カ国に輸出されるようになりました。オリエンタル・ビューティーと称された東方美人茶が生まれたのもこの時期です。まあ、その後お茶の産地が東南アジアや南アジア(インド)に移っていった(ヨーロッパに近いところで作った方が安い)ために、売れなくなる時期もあるのですが、台湾のお茶産業はヨーロッパ人によって発展したと言って間違いはないかと思います。
    台湾茶の輸出は今の台北周辺で始まったことが、台湾の中心地が台南から北へ移動した理由だという話をどこかで読んだのですが、どこで読んだのかは忘れました。 ↩︎
  9. 本省人のうち、福佬人と客家人の移住元について(脚注図2、3参照)[4]
    脚注図2に台湾の福佬人と客家人の出身地域で、その人数が多い地域を示しました。濃い橙色が福佬人、薄い橙色が客家人の出身地域を示しています。肌色の網掛けは、福建省と広東省を示しています。その割合に関しては、脚注図3に示しました。本省人の中で、福佬人は福建省の泉州が47%、漳州は37%で合計84%、客家人は広東省の恵州8%、潮州4%、嘉応州4%で合計16%で、福佬人は客家人の5倍以上いるようです。劉枝萬が本文中で述べているように、実際の細かい人数や内訳について、正確な調査がされているかは疑問です。ですが、割合については大きく変わらず、参考にはなるだろう、としています。福建省にも客家人はいるし、広東省にも福佬人はいます。必ずしも、人々が省ごとに分布しているわけではないことには注意が必要です。
    ↩︎

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