台湾の中心地が台南から台北に移されたのはなぜ??

台湾の中心地が台南から台北に移されたのはなぜ??_表紙 台湾

 こんにちは。ズッキーです。

 現在、台湾の中心地といえば、台北を思い浮かべますよね。

 ですが、かつてはその中心地は台南にありました。

 

 台北に中心地が移されたのは、なぜなのでしょうか。

 答えを言ってしまうと、台北が台湾の経済的な中心地として発展したことに加え、清朝による台湾省の設置と行政機関の再編が、政治の中心が北へ移るきっかけとなりました。

 

台南が台湾の政治的中心だった時代

 元々は台南が台湾の中心地でした[1]。

 台湾で初めて行政機関が作られたのは、台南でした[1]。オランダ東インド会社の拠点が置かれていた台南エリアに、中国の明王朝の遺臣である鄭成功が、清から落ち延びて、政府を打ち立てたのです[1]。

台湾が漢民族によって開拓された初期の漢民族(あるいは日本人、欧米人)による拠点の位置

 その後、清王朝が鄭氏台湾を滅ぼした後も、鄭氏の流れを継いで、行政の中心は台南に置かれました[1]。

 また、19世紀まで、台湾の経済の中心は米や砂糖(サトウキビ)が担っていました[1]。そのため、台湾中部の鹿港や台南が経済的な中枢も担っていました[1]。

(▶︎関連記事|台南が台湾の中心地になったのはなぜ?)

 

 

19世紀後半、台北が発展した背景

 そこから、台北が経済の中心地になっていったのは、台北近くの淡水の開港がきっかけです[1], [2]。イギリスと清の2度にわたるアヘン戦争(1840〜1842年)の結果、天津条約(1858年)によって、台湾の淡水と台南が開港されました[1], [3]。

 そもそもアヘン戦争が起きた原因は、イギリスがお茶を買いすぎて、貿易赤字になったことにあります[4]。お茶狂いになったイギリス人が、インドからアヘンを輸出し、清の人々をアヘン狂いにさせることで、貿易摩擦を解消しようとしたという最悪な理由で戦争が始まります。

 そこまでイギリス人がお茶に狂っていたことからもわかる通り、西洋のお茶需要はものすごいものでした。

 

台湾の主要な輸出品:艋舺や大稲埕を通して輸出される茶葉

 清との戦争には勝利したものの、お茶を清から購入する限り、構造は変わりません。

 イギリスはお茶を安く手にいれるために、自分たちでお茶栽培をできる場所を探していました[5]。1865年にイギリスのJohn Doddという人が来台したことがきっかけで、台湾北部でお茶(特に烏龍茶)の栽培が始まります[2], [6]。淡水はその主要な港として栄えました[2], [3], [7]。

小松2016[27]によると、台湾初期の茶産地は石碇区と文山区とされる。ここでは、茶が淡水港から輸出される際に、茶の栽培地(石碇区と文山区)から台北の大稲埕を経由し、淡水河を使って運ばれていたを模式図で示した
小松2016[15]によると、台湾初期の茶産地は石碇区と文山区とされる。ここでは、茶が淡水港から輸出される際に、茶の栽培地(石碇区と文山区)から台北の大稲埕を経由し、淡水河を使って運ばれていたを模式図で示した。

 日本統治が始まる直前には、台湾の主要な輸出品は、金額ベースで茶54%、砂糖36%、樟脳4%でした[3], [8]。このうち、茶は、台北の艋舺バンカア(=萬華、万華)の製茶工場や大稲埕ダーダオチェンを通って、淡水河を下って、淡水から輸出されていました[2], [3], [7]。砂糖の輸出はこれまで通り、台南や台湾中部あたりが担っていたと考えられます。また、樟脳は台北や台湾中部の市場で取引されていました[3], [9]。

 つまり、金額ベースで台湾の輸出の50%以上を、台北を中心とする北部の茶貿易が担っていたことになります1。

 

 ちなみに、茶貿易の中心地となったのは、大稲埕というエリアです[7]。日本人の観光地として大人気の迪化街はこのエリアの一部に当たります[7]。(地図参照のこと2)

▶︎関連記事|台湾旅行で迪化街に行った話

淡水河沿いの台北の交易の中心地であった大稲埕(ダーダオチェン)と艋舺(バンカア)の大まかな位置。1903年の地図を元に作成。
淡水河沿いの台北の交易の中心地であった大稲埕(ダーダオチェン)と艋舺(バンカア)の大まかな位置 © OpenStreetMap contributors

 先日、東方美人茶を買いに、新竹縣北埔郷へ行ったのですが、そこのお茶屋さんも大稲埕にお茶のお店を構えていたようです。

 迪化街に古い建物の問屋さんが溢れているのも、この時代の影響です。

 

台湾省の設置と省都の移転

 このように、台北は当時の台湾経済のかなり大きなウェイトを占めるエリアになっていたことから[1]、清末1887年(1885年とされることもある[1])に福建省から独立して台湾省となったことをきっかけに省都も台北に移りました[10], [11]。

台北へ首府が移った理由

Q. 台北に中心地が移されたのはなぜ??

A. 茶と樟脳が台湾を支える大きな産業になり、経済の中心地が台北に移ったから。

 

引用文献

  1. 『台湾を知るための72章【第2版】』赤松美和子・若松大祐編 2022 明石書店
  2. 『1895 年以前の台湾における茶文化の幕開け―「産業」としての茶―』陳 怡臻(2025.5.14アクセス)
  3. 『台湾の歴史と日台関係 古代から馬英九政権まで』浅野和生著 2010 早稲田出版
  4. 『お茶の世界の散歩道』森竹敬浩著 2009 講談社出版サービスセンター
  5. 『茶の世界史 緑茶の文化と紅茶の社会』 角山栄著 2017 中公新書
  6. 『台湾茶の選び方・愉しみ方 極める台湾茶』池上麻由子著 2005
  7. 『中国茶&台湾茶 遥かなる銘茶の旅』今野純子著 2021 秀明大学出版会
  8. 『台湾の樟脳政策に関する史的研究 (1)』陳桂清 1976 林業経済(2025.5.14アクセス)
  9. “History”Taipei City Government(https://english.gov.taipei/cp.aspx?n=D9C0E9FCBC6D0732)2025.5.14アクセス
  10. 『福建台湾省』wikipedia(https://ja.wikipedia.org/wiki/福建台湾省)2025.5.14アクセス
  11. 『台湾歴史地図』アプリ(https://digitalarchives.tw/Apps/TaipeiHistoricalMaps/index_jp.html)2025.5.17アクセス
  12. 『地図で読み解く日本統治下の台湾』陸傅傑著 2019 創元社
  13. 『台湾茶葉産業の現状と課題』小松出著 2016(2025.5.17アクセス)
  14. 『鄭氏台湾史––鄭成功三代の興亡実紀』林田芳雄著 2003 汲古書院
  15. 小島克久. (2017). 第 2 次世界大戦以前の台湾の人口変動と日本との比較検討. 人口問題研究 (J. ofPopulationProblems), 73(4), 254-269.
  16. 『日本人と台湾』歴史REAL編集部 2015 洋泉社
  17. 新北市立淡水古蹟博物館HP『歷史小旅行 清代滬尾關』(https://www.culture.ntpc.gov.tw/tshs_chi/xceventsnews/cont?bdate=2025-06-04&disp=2&sid=0H121691726578623864&xsmsid=0G252620780150430418)2026.9.30アクセス

 

脚注

  1. 淡水からの輸出割合
    新北市立淡水古蹟博物館HPの淡水海關(税関)の記録によると、淡水港の総貿易額は、台湾全体の最大66.61%を占め、半分以上を誇っていました。また、輸出では茶葉が最も多く、輸出貿易額の94%を占め、次いで樟脳と石炭が続き、茶葉は淡水河港における最も重要な輸出品となっていました。

    また、

    茶是淡水港最重要的出口品,其中烏龍茶出口值佔了1868-1894年淡水港總出口值的88%,而「福爾摩莎烏龍茶(Formosa Oolong Tea)」更享譽全球,至今英國知名品牌唐寧茶(Twinning)仍有Formosa Oolong Tea的品項。
        1868-1895年間,淡水茶葉的出口占了全臺出口總值的 54.49%,可說是主導整個北臺灣的經濟活動,甚至歷史學者指出,茶業貿易使經濟重心北移,連帶近代化措施集中於北部,巡撫衙門也設於臺北(1887),足以說明晚清臺灣的歷史重心,已從南部轉移到北部。
        這麼厲害的商品,是誰發現它的商機呢?
        淡水開港之後,英國駐臺灣首任領事郇和(Robert  Swinhoe)觀察到,有相當數量的茶運銷大陸,他在1862年的領事報告中對臺茶做了介紹,並寄了茶樣本給香港茶葉專家,得到的答覆是,「茶之味道甚佳,惟製茶及包製之方式過於粗陋。」郇和覺得北臺灣適合種植茶葉,因為冬季氣候溫濕,使得產季比大陸早,如果能改善烘培技術,或移植更適合臺灣土質的品種,可以增進品質。
        這份報告並沒引起英國官方太大注意,但卻開啟了臺灣北部茶葉量產外銷的商機,三年後英國商人約翰‧陶德(John Dodd)從中國福建引進安溪烏龍茶苗試種,展開了臺灣茶葉的黃金歷史。

    茶は淡水港において最も重要な輸出品であり、中でもウーロン茶の輸出額は1868年から1894年にかけて淡水港の総輸出額の88%を占めました。
    (中略)
    1868年から1895年の間、淡水からの茶葉の輸出は台湾全体の輸出総額の54.49%を占め、台湾北部全体の経済活動を主導していたと言えます。歴史学者からは、茶の貿易によって経済の中心が北部へと移動し、それに伴って近代化施策も北部へ集中するようになったことが指摘されています。1887年には巡撫衙門(行政長官官邸)も台北に設置され、これは清代末期の台湾における歴史的重心が、すでに南部から北部へと移行していたことを十分に物語っています。

    と書いてあることから、淡水からの茶葉輸出が台湾北部の発展を支え、経済を動かしたと言えます。また、淡水の茶葉は大稲埕ダーダオチェンと艋舺バンカアを通って輸出されていたことから、淡水からの輸出≒台北からの輸出と考えました。
    ↩︎
  2. 地図の詳細情報
    位置情報は1903年の地図[12]および1920年の地図[13]を元に私の目で確認。現在でも確認できる場所として、龍山寺と霞海城隍廟をプロットした。また、迪化街の大まかな位置を線で表した。台北駅はわかりやすくするために赤色でプロットした。ここから船で交易品を淡水港に運んだことを示すため、淡水港の方角を矢印で示した。 ↩︎

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