台湾の中心はなぜ変わった?古都・台南の興亡と台北への変遷

台湾の中心地はなぜ変わった?古都・台南の興亡と台北への変遷_表紙 台湾

 こんにちは。ズッキーです。

 台湾の歴史を語る上で欠かせない都市、台南。かつてこの街は、台湾の中心として繁栄を極めていました。

 「あれれ、台湾の中心って台北じゃないの?? なんで台南???」

 そんな「台南ってなぜ中心地だったんだろう?」という疑問からスタートした記事です。

 

はじめに

 フワッと、「台南ってなんで昔台湾の中心地になったんだろう??」という疑問を感じてしまったので、「う〜ん、この記事って需要があるのか?」と思いつつ、調べて考えてみた結果をまとめました。思いついてしまったものは、仕方ありません。どうせ衝動で調べてしまったのなら……ということで記事にしてしまいました。

 お付き合いいただける方は、お付き合いください。

 

台北はずっと台湾の中心地だったわけではないの??

 台湾に行くまでは、今も昔も、台北が台湾の中心地だと思っていた私です。

 でも、違いました。

 約400年前、台湾が開拓され始めた頃、なんと台湾の中心地は台南だったのです[1], [2]。というか、その前の時代、16〜17世紀まで、台湾がほぼ未開の地1とされていた[1], [2]ことを知って、びっくり仰天しました。それ以前の台湾には、オーストロネシア系の原住民が住んでいるのみで、統一された国家や行政組織はない無国家状態だったのです[1], [2], [3], [4], [5]。

出典「東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所『台湾資料』」

 上の地図は台湾の原住民の言語分布図です。年代は18世紀のものですが、それ以前も同様に、台湾には原住民が暮らしていたと考えられます。この地図から、現在の台北や台南にあたる場所にも、原住民が分布していることがわかります。このように、16〜17世紀以前の台湾は、統一された行政組織はなく、複数の民族が混在する場所でした。

台湾が漢民族によって開拓された初期の漢民族(あるいは日本人、欧米人)による拠点の位置

 台湾がこのような政府組織のない土地だったことを知って、びっくりすると同時に、うっかり疑問が頭をよぎってしまいました。

 それは……

「なんで台南が最初の中心地になったんだろう??」

という疑問でした。私がサラッと調べた限りでは、この疑問にきっちり答えてくれるサイトはありません。なので、私が自分で回答します!

 

現在の台湾人の多くは漢民族の移民が祖先!?

 というのも、今の台湾人のほとんどは、中国大陸からの移住者が元になっていて、その移住元は福建省と広東省が多いとされています[1], [2], [6]。特に初期の台湾移住者は福建省の出身者が多いらしいです[6]。

客家や台湾の初期の移民について詳しく知りたい方はこちら↓

▶︎台湾人の出身地域と宗教について>>

 私は、福建省が台南に近いから、行きやすいところに移民が集まって台南が中心地になったものだと思ったのですが、地図で見ると、実際に福建省に近いのは、現在の台中のあたりのように見えます。

それなら「なんで、台中のあたりを中心地にしなかったんだろう?」と思ったので、ひとまず妻にも意見を聞いてみました。

(妻)「海流の影響じゃない?」

「なるほど〜。さもありなん!」と思ったのですが、本当にそうなのでしょうか?

 そこで、自分なりに調べてみることにしました。疑問が浮かんでしまったからには、調べないわけにもいきません。仕方ありませんね。

 

今回のテーマ

 さすがに海流の話だけだと物足りないと思うので、それに加えて、私が考えたのは次の3つ理由です。3つも理由を挙げたせいで、こんなに調べないといけないのか、という気持ちにもなりましたが、仕方ありません。思いついてしまったのですから。

3つの理由

Q. 台南が台湾の中心地になったのはなんで??

考えられる理由

  1. 台南は中国から物理的に行きやすかった?(海流の影響など?)
  2. オランダが台南を台湾の一大拠点にしたから?
  3. 台南がその後も中心地になり続けたのはオランダのおかげ??

 これらの理由のうち、どれが台南の町が中心地として成り立った理由なのかを検証してみよう、というのが今回の企画です。もちろん、ここで考えたことが事実かどうかはわかりませんが、持っている情報から勝手に予想するくらいやってみても良いでしょう??

 

 でも、その前に!

 台南が中心地だった頃の歴史をもう少し詳しくみていきましょう。

背景:台南が中心地の時代の方が長い!?

 オランダ東インド会社が台湾が来るまで、組織だった統治機構はなかったため、オランダ東インド会社に始まる歴史でみてみます。オランダ東インド会社以降、台湾を支配した、支配組織や国家をまとめると、以下の通りです。組織、その年代、中心都市を表にしています。

支配組織・国家年代中心都市
オランダ東インド会社1624〜1662年台南
鄭氏台湾1662〜1683年
1683〜1887年
1887〜1895年2台北
旧大日本帝国🇯🇵1895〜1945年
中華民国?🇹🇼1945〜現在 
台湾を支配下に置いた会社組織・国家・行政組織一覧。基本的な年代に関しては、周2007[2]を参照した。ただし、台南から台北へ中心都市が移行した年代に関しては、複数の参考文献[1], [7], [8]から総合的に判断した。

 大雑把に計算すると、台南が中心地とされた時代は、260年以上にも及ぶのに対し、台北が中心地とされた時代は、2025年現在で130年と少しです。実はまだ、台南が台湾の中心地であった時代の方が長いのです。

 では、台湾において、台南から発展が進んでいったのはなぜなのでしょう?? 

 

 ここからは、「台南が台湾の中心地になったのはなんで??」という疑問に対して、考えられる理由を一つずつ考えていきます。

理由1:台南は中国から物理的に行きやすかった?

 たまたま本を読んでいる時に、こういう話を見つけました。

 広東省出身の客家の人々(客家:漢民族の一支系)に関して、海流の影響で、台湾南部に辿りつきやすかったのだという話[9]があるのです。引用しますね。

①美濃

 広東省から台湾へ移民する場合、台湾海峡を流れる海流の関係もあり、南部にまず船が到着する。したがって南部は最も古くから開発され、古都の風情が色濃く残る土地となっている。美濃は今でも台湾文化の発信地の一つで、油紙傘(➡︎第二十二章参照)は美濃の特産品としてよく知られている。

『客家–––歴史・文化・イメージ』飯島典子・河合洋尚・小林宏至著 2015 現代書館[9]

 このように、台湾南部が古くから開発されたのは、海流の影響で、南部に船が到着したからだと書いてあります。

 ここで言われている、美濃の位置を地図で見てみましょう。

図は、台湾人(本省人と呼ばれる第2次世界大戦前から台湾に住む人々)の主要な出身地域を表したものである。福建省福州、泉州、漳州、汀州と広東省潮州、嘉応州、恵州の7つの地域(オレンジ色で色付けした場所)は、特に台湾移民が多いとされる出身地。台湾移民は福建南部(閩南)出身の漢民族(福佬人)と広東出身の漢民族支系客家人が多いとされる。「客家の伝統文化の中心地」とされる台湾の美濃はピンクの枠線で示した。
図は、台湾人(本省人と呼ばれる第2次世界大戦前から台湾に住む人々)の主要な出身地域を表したものである。福建省福州、泉州、漳州、汀州と広東省潮州、嘉応州、恵州の7つの地域(オレンジ色で色付けした場所)は、特に台湾移民が多いとされる出身地。台湾移民は福建南部(閩南)出身の漢民族(福佬人)と広東出身の漢民族支系客家人が多いとされる。「客家の伝統文化の中心地」とされる台湾の美濃はピンクの枠線で示した。

 美濃は台南より南東、行政区分では、高雄市美濃區と呼ばれる地域です。地図で見ると、本で説明されている通り、台湾南部の土地であることがよくわかります。ここが台湾の「客家の伝統文化の中心地」と説明されている[9]ので、初期の客家の人々がここから発展していったようにも読み取れます。

客家や台湾の初期の移民について詳しく知りたい方はこちら↓

▶︎台湾人の出身地域と宗教について>>

 これだけ読むと、台南は船で行きやすかったから、人が集まって発展していったように思えます。しかし、本当に、ここに書かれている通り、中国大陸から台湾に航海するとき、台南は海流的にいきやすい場所だったのでしょうか。

 

台湾へのアクセス:台湾海峡の海流の視点から

 それでは、実際に台湾海峡の海流を見てみましょう。

 Jan et al. 2002[10]によると、台湾海峡に流れる海流は主に3つです。

  • 【台湾〜膨湖諸島間】黒潮分流(Kuroshio branch current)
  • 【膨湖諸島〜大陸間】(夏)中国沿岸流(China coastal current)
  • 【膨湖諸島〜大陸間】(冬)南シナ海表層流(South China Sea surface current)
赤プチ(赤プロット)は無視してください。他で作った地図を使い回しているだけです。

 台湾〜膨湖諸島間に関しては年中北向きの黒潮が流れています[10]。一方、膨湖諸島〜中国大陸間については、季節風(monsoon)の影響で、夏は南シナ海表層流が強まり、北向きの海流に、一方、冬は中国沿岸流が強まり、南向きの海流になります[10]。

 正直、航海の専門家ではないので、16〜17世紀の船の操縦に対して、海流の影響がどれほどあったものなのかはわかりません。おそらく帆船で海を渡っていた時代でしょうから、今よりも風や海流の影響を受けたでしょう。しかも、大陸で十分お金を持っている人がわざわざ未開の地と言われている場所に危険を犯して渡る必要もないわけです。つまり、それなりに困窮した中国人が船で台湾に渡ったと考えると、そんなに高性能な船に乗っていたとも思えません。すると、海流の影響は強く受けるような気もします。

 この地図で見えている範囲の中国大陸は、福建省にあたる地域です。素人目で考えると、夏は台南ではなく、台湾の北側の方に流れ着きやすいような気がします。一方で、冬は、もしかしたら台南にも辿りつけるかもしれないな、という感じがします。でも、ものすごくたどり着きやすいかというと、そういう印象も受けません。もちろん、風の影響も受けたでしょうから、素人には判断不能です。

 ただ、17世紀に移民が多く台湾に流入する以前に、中国人が台湾にいなかったわけではありません[3]。

 

台湾へのアクセス:台湾に元々あった拠点から考える

 17世紀にオランダが台湾に拠点を作る以前、台湾は無国家地帯で無法者が集まる地域でした[3]。というか、東アジアの海が無法地帯だったのかもしれません[11]。

 歴史の授業で、倭寇って聞いたことありませんか?

 倭寇は、中国王朝の明が鎖国し、朝貢貿易以外の貿易を禁止したことで、それまでの物流が滞った結果、発生した海賊です[2], [11]。有名な倭寇は王直(?-1559)という人です[11]。この人は有名な海商であり、海賊でもあります。最近、ジャンプの漫画『ワンピース』で王直という名前が出てきましたが、この人がモデルではないかと思われます。この倭寇や海商は、日本や中国の海を股にかけて、活躍(?)したわけですが、16世紀半ばにはその勢力範囲は台湾にも広がっていました[2], [3], [11]。

 何度も言いますが、オランダ人が来る前の台湾は、無国家で農地もあまり多くない場所だったので、明などの国家権力の及ばない場所でした。お上の目があるところでは都合の悪い、脛に傷をもつ海賊たちが、台湾という自由な地に集まっていたようです[3], [11], [12]。また、明は鎖国国家で冊封体制を敷いたので、自由貿易のために、商人も台湾を利用していたようです[3], [11]。

 その結果、台湾には交易上の拠点が置かれていました。この交易には日本も参入していました[3], [11]。例えば、当時の日本の台湾における拠点は、鶏龍(基隆)と大員(台南)および打狗(高雄)とされています[3]。また、鄭成功の父、鄭芝龍が台湾で海賊の拠点としていたのは、台湾中西部の北港付近とされています[12]。

 このように、台湾の西側沿岸には、台南以外にも、外国人が往来する複数の拠点がありました。このことは、当時の航海技術では、台南以外の土地にも十分にたどり着けるだけの技術があったことを示しています。実際、鄭成功の海軍は、180浬(333km)を一昼夜で走破したと言います[12]。

 

 ただし、次の2点が理由で、台南はアクセスしやすかった可能性があります。

  1. 膨湖諸島を経由できる
  2. 台南は自然の港として寄港しやすい

 

台南の物理的環境1:膨湖諸島を経由地にできた??

 台南に行く際には、膨湖諸島を経由することができたので、北部の地域よりはアクセスしやすかったのではないかと考えました。当時、台湾に行く際に、膨湖諸島を経由していた可能性については、以下の5つの根拠を見つけました。

  1. 膨湖諸島は、元や明の時代から台湾原住民と中国の貿易の拠点とされてきたこと[3]
  2. 台湾海峡の中間あたりで経由できる大きな島が、膨湖諸島以外にない
  3. オランダは膨湖諸島→台南の順番に拠点を置いている[2], [3]
  4. 鄭成功は、膨湖諸島を経由して台南に進軍している[12]
  5. 台湾への宗教の伝来経路として、膨湖諸島を経由しているものがある[13]

 それぞれ解説していきます。

 1つ目。膨湖諸島はオランダが入植する以前の、もう少し古い時代から、大陸との行き来がありました[2], [3]。12世紀前半、宋の時代には、漢人が定住していたとされていて[2]、元の時代には巡検司という役人が置かれて、正式に大陸側に組み込まれています[3]。この時代には、膨湖諸島と台湾の間で交易があったとされています[3]。

 2つ目。これは地図を見たら明らかです。上で載せたものを再度掲載します。

台湾が漢民族によって開拓された初期の漢民族(あるいは日本人、欧米人)による拠点の位置

 ご覧の通り、膨湖諸島以外に、台湾海峡に大きな島は見当たりません。

 3つ目。オランダが最初に拠点にしようとしたのは、膨湖諸島で、1604年と1622年の2回、膨湖諸島を攻撃しています[3]。その後、中国側(明)が反撃したため、オランダは台湾に拠点を置きました[2], [3], [11], [12]。

 4つ目。鄭成功は、明の遺臣です[2], [12]。北から攻めてきた清(遊牧民政権)が滅ぼした明(漢人政権)を復活させようと戦い、中国大陸から敗退した後も、台湾を開拓し、台湾から抗清の旗を振り続けました[2]。この方、父親は鄭芝龍という台湾海峡を拠点とした貿易商で、のちの海賊頭領[3], [12]。母親は田川マツという日本人で、鄭成功は、この二人の間で1624年に生まれました[3], [12]。1644年に北京が陥落し、明が南に逃れてきたときに、鄭氏の一族が助けたことで、鄭成功も明側として、清との戦いに関わることになります[3], [12]。この鄭成功が清との争いに敗れ、台湾へ拠点を移すときに、膨湖諸島を経由したとされています[12]。

 5つ目。台湾の道教の一派に「鸞堂」というものがあるのですが、これが19世紀に大陸から最初に伝わった先が膨湖諸島とされており、そこを経由して台湾本島の方にその信仰が伝わったという話[13]があります。比較的新しい話とはいえ、船がメインの時代に、文化の継承経路というものはそこまで大きく変わるものでもない気がします。ただし、この宗教が伝わった先は、台湾北東部の宜蘭とされています[13]。 

↓台湾の道教神や民間信仰についてもう少し詳しく知りたい方はこちら!

▶︎台湾の道教・仏教神と民間信仰 >>

 しかし、これらの説明で言えることは、膨湖諸島が台湾への飛び石として使われていたという可能性であって、膨湖諸島から台南へ行きやすかったかどうかはわかりません。それでも、膨湖諸島が台湾南部に近いことは、台南へのアクセスを高めたのではないかと思います。

 

台南の物理的環境2:台南は自然の港だった??

 私の数少ない島上陸の経験から言えば、上陸しやすい地形というのは限られています。例えば、私が上陸したある島では、船が付けられる場所が3箇所ありましたが、風の向きや波の高さによって、船を着けられないことがよくありました。また、大型の船だと、それなりに水の深さも必要です。

 台湾の西側海岸は沿岸に砂がよく堆積した浅瀬が多いことから、大型船を停泊させるにはあまり適さない地形でした[14]。つまり、上陸できるところは限られています。その中で、台湾の大員(安平)は台江内海と呼ばれる広大な潟湖になっており[14], [15]、良い港とは言えない[14]ものの、比較的安全な港だったのだろうと思います。実際、良い港ではなかったことは、鄭成功が台湾に侵攻する際に、呉豪という人が「風水は悪いし、病気は多いし、港は浅いし、大きな船で進むのは難しいし、瘴癘しょうれい(伝染病)は多いし、砲台はあっちの方が有利だし、水路は悪い」と言って、鄭成功を止めようとしていること[12]からもわかります。

 大型船には、水先案内人が必要だったようです[14]が、よく荒れる外海に対して、閉鎖的な海が作られている大員(安平)の自然の港は、比較的寄港しやすい港だったのではないかと思います。オランダ人も実はめちゃくちゃ苦労していたのかもしれませんが笑笑。

 

[結論] 理由1:台南は中国から物理的に行きやすかった?

理由1の結論

Q. 台南が台湾の中心地になったのは、中国から物理的に行きやすかったから?

A. 可能性あり。

  • 海流的に行きやすかった可能性(検証必要)
  • 航海技術的には関係なさそう
  • 膨湖諸島を飛び石として使えた可能性
  • 台南の自然港としての性能は悪くない

〈感想〉決定的な答えにはなっていなさそう

 

 

理由2:オランダが台南を台湾の一大拠点にした?

 最初に触れましたとおり、台南が中心地になったスタート地点は、オランダが拠点を置いたことに始まります。この点をちょっと突ついてみましょう。

支配組織・国家年代中心都市
オランダ東インド会社1624〜1662年台南
鄭氏台湾1662〜1683年
1683〜1887年
1887〜1895年台北
旧大日本帝国🇯🇵1895〜1945年
中華民国🇹🇼1945〜現在 
台湾を支配下に置いた会社組織・国家・行政組織一覧。基本的な年代に関しては、周2007[2]を参照した。ただし、台南から台北へ中心都市が移行した年代に関しては、複数の参考文献[1], [7], [8]から総合的に判断した。

 そもそもなぜ、オランダ東インド会社は台湾に拠点を置いたのでしょう??

 

台湾の地理的位置は、航路的ベスト・ポジション??

 オランダ東インド会社は、当時、中国や日本と貿易するための中継地を欲していました[2], [3]。オランダは当時、インドネシアのバタヴィア(ジャカルタ)に拠点を持っていました[11]。そして、日本の長崎や中国の北京と交易したいと思っていました[2], [5], [11]。

 そこで、最初は台湾と中国の間の膨湖諸島に拠点を置きましたが、中国の明政府に「え〜、やめてよ〜。そこ、うちの土地なんだから〜」と軍を派遣されたので、あえなく撤退[2], [3]。

(蘭)「じゃあ、どこならいいの?」

(明)「台湾」

(蘭)「台湾はいいの?」

(明)「だって、そこ、うちの土地じゃないもん!」

 実際にこのような会話がなされたかどうかは知りませんが、とにかく「明から台湾の占領支配の諒解を得ている」というオランダ側の証言があります[12]。

 この話から、当時の航海上の中継地として、台湾の位置は都合が良かったのだろう、ということは予想できます。実際、複数の本[2], [5]で、オランダが中国や日本とバタヴィアを結ぶ航路上に寄港地を必要としていて、その航路上にあったのが台湾であることが書かれています。では、本当に台湾が貿易上、重要な拠点となる場所だったのかどうかを地図上で見てみましょう。

 こちらの地図に点線で示したのは、オランダ東インド会社が通ったと予想される航路です。航路自体は何かの記録を見たものではなく、私の想像ですが、シンプルにバタヴィア(ジャカルタ)と長崎・北京を線で繋いでみました。私の想像で描いたとはいえ、最短距離で長崎や北京に向かう場合、必ず台湾海峡を通ることになるのは間違いないでしょう。

 ご覧ください。

 「これはもう台湾に拠点が欲しかったという話に納得しかないのでは?」

と思ってしまいます。

 地図を見たら一目瞭然ですね。バタヴィアから長崎や北京に行く場合、台湾は完全にその動線上にあります。つまり、台湾に拠点があると、すごく助かります。こんな綺麗な動線もないでしょう。

 ですが、なぜ台南だったのでしょう??

 

台南を選んだのはオランダ??

 オランダが拠点を作った場所は、今の台南市安平区と呼ばれる地区で、当時オランダ語でTayouanと呼ばれていました[2], [12]。これは、台湾南部の原住民シラヤ族が使っていた呼び名に由来していて、漢字では大員、大湾、台員、台湾が当てられました[12]。これが、現在の台湾の名前の由来になりました[12]。ちなみに、当時のオランダは台湾をポルトガル人の命名にちなんでFormosaフォルモサ(「美麗な」の意)と呼んでいました[2]。

 この大員というのは、前述のとおり、貿易商や倭寇(海賊)の拠点となっていた場所です[3], [5], [11]。日本人も交易のためにこの地に来ていました3。オランダが拠点を建てたあと、この地での交易権を巡って、日本がオランダと喧嘩するほどには、この拠点を重要視していました4[3], [5]。

 そんな場所にオランダが拠点を建てたのは、1624年に李旦(カピタン支那:キャプテン・チャイナという渾名)という海賊の仲介によって、福建省当局の官僚との間で交わした協定[11]が理由だと考えられます。

福建省当局の官僚とオランダ人との間で交わされたという協定の内容は、リポンの記述によるなら、驚くべきものだった。

(中略)

 この月〔八月〕の二十四日、我々は某故障等の要塞を取り払うべきか否かについて会議を開いた。彼らと我々の間に交わされた協定を考慮して、大部分は、取払いに賛成だった。それによるなら、中国人は我々がそこにとどまることを望んでいないからである。協定は次のようなものだった。第一に、我々は膨湖諸島から出て行き、台湾の大員地方へ移る。我々は中国沿岸から去り、天候による事故などによるものでない限り、戻ることはない。中国側は、年に二隻か四隻、バタヴィアに向けた商品を満載した船を大員へ航海させる。台湾にはオランダの要塞が建設され〔熱蘭遮城(ゼーランディア城)と呼ばれる。現在の安平古堡に当たる〕、我々が東南アジアで集めた商品を載せたオランダ船と、中国からの商品を乗せた船が集まる。‥‥我々オランダ側は、中国のジャンクが〔スペインの勢力下にあった〕マニラに向かうことを禁止する。もしそのような船が発見されたら、オランダは中国の皇帝、または当局からの咎めなしにそれらを捕獲することができる。中国側は良質な商品を送ることを約束する。もし偽物が含まれていたら、それを持ってきた中国人の目の前で、粉々にして火をつけ焼却し、彼らを生かすも殺すも我々の自由にする。‥‥我々はいかなる海賊行為も容認しない。もし海賊を捕獲したら、彼らをカピタン支那に引き渡す。‥‥カピタン支那は、それだけの働きをした見返りに、以前のように自由に自分の国に戻ることができる。この協定に従い、どちらの側もこれまでに起こった損害は、補償される。

『東インド会社とアジアの海賊』東洋文庫・斯波義信・平野健一郎・羽田正監修 牧野元紀編 2024 勉誠社[11]

 めちゃくちゃ長いので、重要なところだけ抜き出します。

福建省当局の官僚とオランダ東インド会社の協定の内容

  • オランダは膨湖諸島から出ていき、中国沿岸に近づかない
  • オランダは台湾の大員地方(台南)に移り、要塞を建設する。
  • オランダと中国は年に2〜4隻分、大員で交易する
  • 中国はスペイン領のマニラと交易しない
  • マニラへ向かう船から私掠しりゃくしても黙認する
  • 中国が良質な商品を送ってこなかった場合、商品はその場で粉々にして良いし、積荷の主は殺しても良い

 当時のオランダを含めたこの海域の人々がかなり、暴力沙汰に慣れていた様子が伝わってきますね。

 さて、これが前述の「明から台湾の占領支配の諒解を得ている[12]」根拠かどうかは、私が異なる文献を使っていて、そこに詳しく書かれていないので、わかりません。また、元々オランダが大員を狙っていたのか、中国や海賊側から提案されたのか、それもどちらかわかりません

 ただ、オランダが大員(台南)に拠点を置くきっかけが、この協定にあることはわかります。これは、海賊を仲介したやりとり[11]なので、どこまで正式なものかはわかりませんが、オランダが台湾を占領したことを中国から黙認されていることは確かです[12]。中国側の文章でも、「台湾はうちの領土ではない」という内容の書面がいくつか出ているようです[12]。

 

 これが、オランダが台南を拠点にするきっかけになったことはわかりますが、要塞を作って、拠点を建てただけでは、中心地と呼ぶにはまだ足りません。

オランダが台南で農業を切り拓いた!?

 私は当初、オランダが台南に要塞を建てたのは、単に貿易の拠点とするためだけだと思っていました。実際には、原住民の統治から、農地の開拓まで行っていました[2], [5], [12]。オランダは、米と砂糖の生産を奨励し、絹織物や磁器、漢方薬の原料、鹿製品を日本や東南アジアに売りました[3]。例えば、この頃、台湾で作られた砂糖は、ペルシア、バタヴィアのほか、日本にも輸出されています[3]。これらの交易で、年間4万トンの金(Gold)に相当する利益を上げていたそうです[3]。

 農地の開拓には、中国から多くの漢人移民を連れてきて、農耕に携わらせました[12], [16]。漢人移民として連れてきたのは、男ばかりで、原住民の女性との結婚は認められていました[3]。ただし、結婚の際にはカルヴァン派キリスト教(新教)への改宗が義務付けられていました[3]。さらに、原住民の言葉を文字に起こし、それを教えています[2], [5]。

 軍事に、統治に、開拓に、宗教にと、もはや一つの国と言ってもいいほどのレベルで、台南を統治したオランダ東インド会社が、台南発展の基礎を作ったのは間違いないでしょう[12]。それまで、無政府状態で狩猟中心の社会であった台湾[2], [3]では、オランダ東インド会社は初めての統治機構と呼べるものでした[12]。

 

[結論] 理由2:オランダが台南を台湾の一大拠点にしたから?

理由2の結論

Q. オランダが台南を台湾の一大拠点にした?

A. その通り。

  • 台湾は東南アジアを通り交易を行う東インド会社にとっては経済的要所だった
  • 台南がオランダの支配下に入ったのは、明との交渉がきっかけ
  • 台南が一大拠点となったのは、オランダが原住民や漢人移民を使って開拓したため

〈感想〉オランダこわい

 

 このように、オランダが台南を拠点としたのは、明との交渉内容が理由であったことはわかりました。また、オランダが台南を開拓によって発展させたこともわかりました。しかし、その後の支配者たちが、台南を中心地とし続けた理由はなんなのでしょう??

 

理由3:台南がその後も中心地になり続けたのはオランダのおかげ??

 ここまでの流れで、オランダばかりが出てきていますが、オランダ以外にも、東アジアに進出した国があることはご存知だと思います。その国の一つがスペインです[2], [3]。

 オランダが台南を占領していた当時、スペインもまた台湾北部を占領しました[2]。

 オランダが台南に拠点を築いたのは、1624年のことです[2], [3]。その2年後に、スペインが台湾北部の淡水と基隆に拠点を築いています5[2], [3]。

オランダスペイン
1622年膨湖諸島に拠点作り開始
1624年明に膨湖諸島を追い出される
台南の安平に堡塁を築く
1626年淡水・基隆を占領
1627年ゼーランジャ城完成
1642年スペインを台湾から駆逐
1656年プロヴィンシャ城築城
1662年鄭成功に駆逐される
周2007より作成[2]

 しかし、1642年にはオランダによって、スペインは台湾から追い出されてしまいます[2], [3]。その原因は、スペインが占拠した台湾北部の開拓がうまく進まず、派遣していた軍を減らすことになったからです[3]。つまり、この時点で、オランダが開拓した台南が、台湾で唯一成功した開拓地だったということになります。オランダが台南を開拓したのは、偶然なのか、想定通りだったのか、わかりませんが、オランダが台南を拠点とした結果、開拓は成功しました。

 こうして、スペインを退けたことで、オランダの支配圏は、台湾の西海岸の北部から南部まで広がりました[2], [3]。しかし、このオランダの支配は、明の遺臣、鄭成功によって、終わりを告げます[2], [3], [12]。

 

鄭成功はなぜ台南を本拠地とした??

 端的にいうと、選択肢がなかったからです。

 鄭成功は明側(漢人王朝)で清(遊牧系の女真族)と戦った人ですが、度重なる清との戦い次第に追い詰められていきます[12]。清は遊牧民の王朝なので、陸戦にはめっぽう強かったに違いありません。中国に移住していた日本人の母も死に、父親は降伏し、味方も寝返ったり死んだりで、どんどん減っていきました[12]。台湾への避難も一度検討しましたが、オランダの強さがわからず、一度諦めています[12]。そのため、台湾侵攻の噂が立ったときに、オランダには、一度、「台湾には侵攻しないよ」という書簡を送っています[12]。

台湾占領時の鄭氏台湾の予想版図。台湾侵攻時には、金門、厦門、銅山(東山島)、南澳、膨湖(薄緑で色付け)しか領土が残っていなかった。この5つの島は緑色で示した。緑の点線は本から予想した国境線。
台湾占領時の鄭氏台湾の予想版図。台湾侵攻時には、金門、厦門、銅山(東山島)、南澳、膨湖(薄緑で色付け)しか領土が残っていなかった。この5つの島は緑色で示した。緑の点線は本から予想した国境線。

 残る拠点も海上の島ばかり[12]。さらに追い詰められたところに、何斌(何廷斌、Pinqua)という人がひょっこり現れます[12]。元々、鄭成功も知っている人物でした。

(何斌)「おれっちが台湾へ案内してやるよ。台湾いいところダヨ〜」

(鄭成功)「やっべ。マジ助かる。天の使いだわっ!」

 話した言葉は私の妄想ですが、内容はそこまで間違っていないでしょう。

 この何斌という人物、何者なのかというと、オランダと交流のあった海賊で、このとき、オランダ台湾政庁の公金数十万を横領していました[12]。横領がバレないうちに、逃げて鄭成功にオランダを攻撃してもらってうやむやにしてしまおう、という算段だったのでしょう。たくましいですね!

 というわけで、おそらく内部情報を手に入れた鄭成功は、何斌にもらった地図を手に、1661年に膨湖諸島を経由して、台湾に侵攻しました[12]。プロフィンシア砦はオランダ人が明け渡し、ゼーランディア城は攻め落とし、鄭成功は台湾を手に入れました[12]。

 この戦いの序盤、膨湖諸島を経由した時点で、鄭成功軍の兵糧は尽きていた[12]というので、鄭成功がいかに追い詰められていたかがよくわかります。つまり、鄭成功にはここを拠点とする以外に術がなかったのです。

 

鄭氏台湾はオランダの体制を引き継いだだけ??

人口農地
オランダ時代末3.5〜5万人程度6
(原住民を含まない)
12,252メルヘン
鄭氏台湾時代末12〜16万人程度
(原住民を含まない)
18,453甲
清末約260万人
(おそらく原住民を含む)
600,000ヘクタール
複数の文献を元に作成[1], [12], [16], [17]。甲はメルヘンを漢字表記しただけのものなので、同じ広さを表す。甲・メルヘンは、ヘクタールとほぼ同じ広さとされる。

 鄭成功は、1662年に台湾上陸から数ヶ月でぽっくり死にます[3], [12]。清に投降した父が処刑されたり、味方にも厳しい鄭成功に息子が反抗したりと色々ショッキングな出来事もあった[12]ようです。鄭成功は、台湾では開台聖王7という神様として祀られているのですが、「こんなに台湾で生活していた期間が短かったんかいっ!!」とびっくりしました。でも、オランダ領台湾にならなかったのは、鄭成功のおかげです。その後、帝国主義ジャパンに喧嘩をふっかけられたりすることを考えたら、どっちが良かったのかはわかりませんが……。

 短い台湾時代に、きちんと政策も作っています。鄭成功は、国号(台湾の島としての名前)を東都(東都明京)とし、都を承天府(安平プロフィンシア町)としました[12]。この政権を鄭氏台湾と呼びます[12]。鄭成功亡き後は、後継者争いを勝ち抜いた息子の鄭経が台湾統治を引き継ぎました[12]。息子は、”明”京と入っていたのを嫌がったのか、1664年には国号を東寧に改めました[12]。このことから、この王朝を東寧王国と呼ぶこともあります[12]。本で読む限り、この息子は、なんだか偉そうな振る舞いをしていて、私は好きではありません。

 この鄭氏政権は六官制度など、中国的な行政組織は作りましたが、土地制度や測量法、徴税方法はオランダのやり方を受け継ぎました[12]。鄭氏台湾が台湾を引き継いだ時点で、すでに耕地面積は1万2千ヘクタール以上、漢人人口は4〜5万人もいたということから、約40年間の期間でオランダがいかに開拓を進めていたかがよくわかります[12], [16]。

 そして、鄭氏台湾が終わる頃には、耕地面積は1万8千ヘクタール以上、人口は12〜16万人(推定)いたとされています[12], [16]。この約21年間で前の時代と変わった点といえば、サトウキビより米穀の栽培が増えたことでしょうか[12]。軍を擁する以上、兵糧の確保は最重要事項でした。その結果、自然と、オランダが作ってくれた基盤を元に、開拓を進めていくことになったのではないかと思います。

 ちなみに、オランダは原住民に文字を教えました[2]が、鄭氏政権も学校を作っています[12]。鄭成功亡き後、陳永華という人が国家安定の基本として、食料の確保と教育の実施の必要性を、鄭経(鄭成功の息子)に説いています[12]。これによって、建てられたのが、聖廟(孔子廟)で、最高学府とされました[12]。今も台南に残っているものがこれです。これも台南が中心地として機能する要因だったかもしれません。

 

清は台湾を開拓するつもりはなかった??

 清は台湾に対して、全然やる気がありませんでした[3], [12]。

 内輪揉めの間隙をつかれて、鄭氏台湾が滅びた[12]後、台湾は清が占領しました[3]。台湾が領土になるのは、中国史上、初めてのことです[3], [12]。「お祝いしませんか」と臣下に尋ねられた康熙帝(皇帝)は

(康熙帝)「え〜、大した土地じゃないしいいよ〜」

と断っています[3], [12]。

 領土とするかどうかについても、

(清)「え〜、だって台湾を占領したのも、鄭さんが突っかかってくるからだし〜。大して税金も取れないし、いらなくね??」

(清)「あ〜、でも国防上、台湾を他国とか第二の鄭氏の拠点にされても危ないか〜」

というような具合でした[12]。

 臣下に説得されて、やっとのことで清は台湾を統治下に置くことにします[12]。

 台湾は福建省の一部として扱われ、台湾府が置かれました[1], [5]。台湾府署は台南の鄭経の邸宅だった場所に置かれ、台南が引き続き、台湾の中心地とされました[12]。台南はオランダ時代と鄭成功時代の流れを汲んで、砂糖とお米の生産地として発展していきます[1], [3]。

 清政府は、原住民の土地を開拓することを禁止しました[2], [3]。また、台湾が反清の拠点となることを防ぐため、台湾への渡航や台湾への家族を伴っての渡航を禁止(〜1760年)しました[2], [3]。それでも、制度の穴や強制力の弱さもあって、行政的統制が効かないまま、漢人移民が勝手に台湾の開拓を進める結果になりました[2], [3]。

 

[結論] 理由3:台南がその後も中心地になり続けたのはオランダのおかげ??

理由3の結論

Q. 台南がその後も中心地になり続けたのはオランダのおかげ??

A. その通り。

  • オランダは台湾の開拓にかなり成功した
  • 鄭成功はかなり追い込まれていて、台南を奪う以外の選択肢がほぼなかった
  • 鄭氏台湾はオランダの開拓地をそのまま引き継ぎ、兵糧を作り、抗清の拠点とした
  • 清は台湾を開拓するつもりはなかったので、それまで通り台南中心の社会ができた

〈感想〉オランダすごい

 

 

Q. 台北に中心地が移されたのはなぜ??

 台北が経済の中心地となっていたからです[1]。

 19世紀以前は、台湾の経済の中心は米や砂糖(サトウキビ)が担っていました[1]。そのため、台湾中部の鹿港や台南が経済的な中枢を担っていました[1]。

 そこから、台北が経済の中心地になっていったのは、台北近くの淡水の開港がきっかけです[1], [18]。イギリスと清の2度にわたるアヘン戦争の結果、天津条約によって、台湾の淡水と台南が開港されました[1], [3]。

 アヘン戦争が起きた原因がイギリスがお茶を買いすぎて、貿易赤字になったことにあります[19]から、西洋のお茶需要はものすごいものでした。イギリスはお茶を安く手にいれるために、自分たちでお茶栽培をできる場所を探していました[20]。1865年にイギリスのJohn Doddという人が来台したことがきっかけで、台湾北部でお茶の栽培が始まります[18], [21]。淡水はその主要な港として栄えました[3], [18], [22]。

小松2016[27]によると、台湾初期の茶産地は石碇区と文山区とされる。ここでは、茶が淡水港から輸出される際に、茶の栽培地(石碇区と文山区)から台北の大稲埕を経由し、淡水河を使って運ばれていたを模式図で示した
小松2016[27]によると、台湾初期の茶産地は石碇区と文山区とされる。ここでは、茶が淡水港から輸出される際に、茶の栽培地(石碇区と文山区)から台北の大稲埕を経由し、淡水河を使って運ばれていたを模式図で示した。

 日本統治が始まる直前には、台湾の主要な輸出品は茶50%以上、砂糖36%、樟脳4%でした[3]。このうち、茶は、台北の艋舺バンカア(=萬華、万華)の製茶工場や大稲埕ダーダオチェンを通って、淡水川を下って、淡水から輸出されていました[3], [18], [22]。また、樟脳は台北や台湾中部の市場で取引されていました[3], [23]。つまり、輸出産業の半分以上を台北が担っていたということになります。特に茶貿易の中心地となったのは、大稲埕というエリアです[22]。日本人の観光地として大人気の迪化街はこのエリアの一部に当たります[22]。

淡水河沿いの台北の交易の中心地であった大稲埕(ダーダオチェン)と艋舺(バンカア)の大まかな位置。1903年の地図を元に作成。
淡水河沿いの台北の交易の中心地であった大稲埕(ダーダオチェン)と艋舺(バンカア)の大まかな位置を現在の地図上に描いた。位置情報は1903年の地図[25]および1920年の地図[26]を元に私の目で確認した。現在でも確認できる場所として、龍山寺と霞海城隍廟をプロットした。また、迪化街の大まかな位置を線で表した。台北駅はわかりやすくするために赤色でプロットした。ここから船で交易品を淡水港に運んだことを示すため、淡水港の方角を矢印で示した。

 このように、台北は当時の台湾経済のかなり大きなウェイトを占めるエリアになっていたことから[1]、清末1887年(1885年とされることもある[1])に福建省から独立して台湾省となったことをきっかけに省都も台北に移りました[7], [8]。

台北へ首府が移った理由

Q. 台北に中心地が移されたのはなぜ??

A. 茶と樟脳が台湾を支える大きな産業になり、経済の中心地が台北に移ったから。

〈感想〉お茶すごい!

 

結論

 台南がかつて台湾の中心地となった主な理由を以下のようにまとめました。

全体の結論

Q. 台南が台湾の中心地になったのはなんで??

  • 地理的条件: 澎湖諸島を経由しやすく、比較的安全な港湾があったこと。
  • オランダの拠点化: 貿易拠点としての経済戦略的な選択と、積極的な統治・開発。
  • 鄭成功の拠点: 抗清の拠点としての地政的・運命的選択。
  • 清朝の統治: 台湾府の府署として行政機能を持たせただけの消極的選択。

しかし、19世紀以降の経済発展の中心が台北に移ったことと、台湾省の成立により、中心地は台北へと移行しました。

 ここまで読んでいただき、ありがとうございました。

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引用文献

  1. 『台湾を知るための72章【第2版】』赤松美和子・若松大祐編 2022 明石書店
  2. 『図説 台湾の歴史』周婉窈著 2007 平凡社
  3. 『台湾の歴史と日台関係 古代から馬英九政権まで』浅野和生著 2010 早稲田出版
  4. 『テキスト・音・映像で見る台湾 台灣資料』東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所(https://www.gicas.jp/taiwan/)2025.5.14アクセス
  5. 『台湾の歴史と文化 六つの時代が織りなす「美麗島」』大東和重著 2020 中公新書
  6. 『現代台湾宗教の諸相 台湾漢族に関する文化人類学的研究』五十嵐真子著 2006 人文書院
  7. “History”Taipei City Government(https://english.gov.taipei/cp.aspx?n=D9C0E9FCBC6D0732)2025.5.14アクセス
  8. 『福建台湾省』wikipedia(https://ja.wikipedia.org/wiki/福建台湾省)2025.5.14アクセス
  9. 『客家–––歴史・文化・イメージ』飯島典子・河合洋尚・小林宏至著 2015 現代書館
  10. Jan, Sen, et al. “Seasonal variation of the circulation in the Taiwan Strait.” Journal of Marine Systems 35.3-4 (2002): 249-268.
  11. 『東インド会社とアジアの海賊』東洋文庫・斯波義信・平野健一郎・羽田正監修 牧野元紀編 2024 勉誠社
  12. 『鄭氏台湾史––鄭成功三代の興亡実紀』林田芳雄著 2003 汲古書院
  13. 『台湾の宗教と中国文化』酒井忠夫編 1992 風響社
  14. 『1624年に何が起きたのか?』台灣光華雑誌 鄧慧純 (https://www.taiwan-panorama.com/ja/Articles/Details?Guid=2ce1583e-cdaa-4090-a6b6-6204e08c036a&CatId=10&postname=1624年に何が起きたのか?%20-オランダが台湾に残した足跡)2025.5.14アクセス
  15. “Taijiang History” Annan District Office, Tainan City(https://www.annan.gov.tw/en/cl.aspx?n=31835#)2025.5.14アクセス
  16. “Han Migration and the Settlement of Taiwan: the Onset of Environmental Change” Liu Ts’ui-jung 1998 (https://idv.sinica.edu.tw/ectjliu/劉翠溶學術著作/W9-環境史1pdf/1998Han%20Migration%20and%20Settlement.pdf)2025.5.14アクセス
  17. 小島克久. (2017). 第 2 次世界大戦以前の台湾の人口変動と日本との比較検討. 人口問題研究 (J. ofPopulationProblems)73(4), 254-269.
  18. 『1895 年以前の台湾における茶文化の幕開け―「産業」としての茶―』陳 怡臻(https://www.iii.u-tokyo.ac.jp/manage/wp-content/uploads/2018/04/94_5.pdf)2025.5.14アクセス
  19. 『お茶の世界の散歩道』森竹敬浩著 2009 講談社出版サービスセンター
  20. 『茶の世界史 緑茶の文化と紅茶の社会』 角山栄著 2017 中公新書
  21. 『台湾茶の選び方・愉しみ方 極める台湾茶』池上麻由子著 2005
  22. 『中国茶&台湾茶 遥かなる銘茶の旅』今野純子著 2021 秀明大学出版会
  23. 『台湾の樟脳政策に関する史的研究 (1)』陳桂清 1976 林業経済(https://www.jstage.jst.go.jp/article/rinrin/29/9/29_KJ00009331604/_article/-char/ja/)2025.5.14アクセス
  24. 『日本人と台湾』歴史REAL編集部 2015 洋泉社
  25. 『台湾歴史地図』アプリ(https://digitalarchives.tw/Apps/TaipeiHistoricalMaps/index_jp.html)2025.5.17アクセス
  26. 『地図で読み解く日本統治下の台湾』陸傅傑著 2019 創元社
  27. 『台湾茶葉産業の現状と課題』小松出著 2016(https://www.google.com/url?sa=t&source=web&rct=j&opi=89978449&url=https://obirin.repo.nii.ac.jp/record/2025/files/AN00026282_34_17-38.pdf&ved=2ahUKEwipt8vGuqmNAxXxma8BHS_nAs4QFnoECBUQAQ&usg=AOvVaw3Dy9lJzV5IlYZCyTz86Q6e)2025.5.17アクセス

 

脚注

  1. 原住民でも農地で農業を営む平埔族はいたので、未開というのは、漢人や外国人目線の話であって、実情がどうであったかを意味しません。 ↩︎
  2. 清の時代に列強が台湾に繰り返し干渉してきたので、清も台湾の重要性を認識。台湾省を設置しようと動きが生まれた。準備期間を経て、1887年に正式に台湾省が設置され、初代巡撫として劉銘伝が着任、省都は台北に置かれることになった。初代巡撫である劉銘伝は1885年に着任しているため、台北が省都になったのは、1885年とする考えもあるが[1]、Wikipedia[8]では正式な台湾省の成立を1887年としており、台北市HP[7]にも1887年に省都が移ったと書いてあることから、1887年を採用しています。 ↩︎
  3. 大員の日本人の村[24]
    1626年にスペイン人が作った大員の地図?絵?には日本人の村が描かれています。漢人5万1000人、日本人160人がいたそうです。ちなみに、1607〜1635年までの江戸幕府の朱印状のうち、台湾宛は36(/全353)だったそうです。 ↩︎
  4. 浜田弥兵衛事件[24]
    1627年徳川家光の時代に、オランダ人が大員で交易する船舶に課した10%の輸出税を、朱印船の船長である浜田弥兵衛が拒否。「いやいや、うちら前からここで交易していたんだから、後から来たあなたたちにお金取られるのおかしくね?」とか言ったんじゃないかなと想像しています。それはその通り。とにかく色々すったもんだあって、オランダ人を人質にとり、帰国。オランダ商館閉鎖。オランダ側が謝罪して決着。でもすでに鎖国中で台湾行かないので関係はなかったぽいです。なんだそりゃ。 ↩︎
  5. スペインが最初に停泊した湾は、今でも三貂角さんちょうかくと呼ばれ、地名に残っています[2]。これは、サンティアゴに由来するそうです[2]。聖ヤコブにちなんでつけられているので、聖人の日にそこについたとか、守護聖人にゆかりのある航海者がいたりしたのでしょうか。 ↩︎
  6. オランダ統治下の先住民の数は、1647年で246社(集落)6万2849人、1650年には315社6万8657人で、台湾全体の40〜50%を占めると考えられています[2]。 ↩︎
  7. 「延平王」という称号を桂王永暦帝から授けられていますが、鄭成功自身は1659年に返上しています[12]。本人の自称は「国姓」、対外的には「招討大将軍」でした[12]。延平王や開台の名前は歴史の後付けです。 ↩︎

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