デルフト焼はなぜ青い? ヨーロッパが「アジアを真似して生まれた陶器」の正体

デルフト焼はなぜ青い?ヨーロッパがアジアをマネして生まれた陶器 ベネルクス

 オランダの航空会社KLMに乗ると、陶器のタイルに描かれた絵の中で、客室乗務員が機内の安全案内(Safety Instruction)をしてくれます。

 パラパラ漫画みたいに、タイルの絵が動くアニメーション動画。それをみて、私はこう思いました。

 「へ〜、オランダって陶器が有名なんだ!!」

 この動画に映された、青い染料で装飾された陶器こそ、デルフト焼き(デルフト陶器:Delftware)。オランダ黄金期の象徴です。

 詳しく調べてみると、デルフト陶器は単なるヨーロッパの伝統工芸ではなく、アジア文化と交わることで生まれた独自の工芸品であることがわかりました。

 

デルフトってどこ?

 デルフトは、オランダ南西部の都市です。

オランダ・デルフトの位置(地図)

 デルフトは毛織物業、ビールの醸造、そして陶器産業で栄えた町です。オランダがスペインから独立するために起こした、八十年戦争の際には、オランダ軍側の本拠地が置かれた要塞都市でもありました。

 

なぜ、デルフトだけが陶器の街になったの?

ヨーロッパの磁器需要の高まり

デルフト新教会の塔の上から見たデルフトの街並み

 デルフトが陶器の製造を始めたのは、16〜17世紀。

 当時のヨーロッパでは、中国の磁器が白い金などと呼ばれて、王侯・貴族たちから、大変もてはやされていました。しかし、磁器の製造法はわからず、代わりに陶器を磁器の見た目や質感に近づける方法が模索されました(▶︎陶器と磁器の違いはこちらの記事で解説)。

 その努力が成功したものが、デルフト陶器です。

 

デルフトで陶器産業が生まれた理由

デルフトの運河
デルフトの運河

 でも、なぜデルフトで生まれたのでしょうか。

 それには4つの理由があります。

デルフトが陶器の街になった理由
  1. 陶土の産地:デルフトが陶器の原料である陶土が取れる土地だったから
  2. 陶工の移住:八十年戦争の戦火を避けて、アントワープから陶工が流れてきた
  3. 土地の余裕:陶器の窯を作るには、土地の余裕が必要。16世紀後半から、繊維産業が活発化したせいで水が汚れ、ビール醸造所が廃業。その跡地に窯を作ることができた
  4. 貿易の拠点:オランダ東インド会社の支社の一つがデルフトにあったため、輸入磁器に触れる機会に恵まれた

 

 こうして生まれたデルフト陶器には、日本とも深い関係があります。

デルフト陶器と日本の関係

我が家にあるオランダ人が描かれた有田焼:青花(究極のラーメン鉢)

 オランダ東インド会社が躍進した17世紀前半、東アジアにおける主要な貿易国は中国でした。しかし、17世紀中頃〜後半中国は、明から清への王朝の過渡期で、海禁政策(遷界令等)により貿易が制限されたため、その相手が日本に移ります。

 日本では、朝鮮出兵で連れ帰った陶工に命じて、1616年に磁器の原料カオリンを発見。磁器の製作を始めます。この頃、現在に続く有田焼や伊万里焼が生まれ、これがオランダ東インド会社を通して、ヨーロッパに輸出されます。初めて日本産磁器がヨーロッパに渡ったのは、1659年のことです。17世紀後半だけで、22万点以上の日本産磁器が出荷されました。

シンプルな色使いの柿右衛門様式のImari(有田で焼かれても、伊万里港から出荷された)。
伊万里焼タイルでできた橋(大川内山)

 デルフトでは、伊万里焼や有田焼を真似して、さまざまなデザインの陶器を制作しました。アムステルダム国立美術館(Rijksmuseum)には、日本の磁器をどうにか陶器で表現しようとした、当時のデルフトの人々の努力の証がしっかりと残されています。

(▶︎アムステルダム国立美術館の旅行記はこちら

伊万里焼(金蘭手?)を真似て作られたデルフト陶器(DE GRIEKSCHE A FACTORYの作品。c.1710 – 22)。アムステルダム国立美術館で撮影

 写真右側の壺(水差し?)をご覧ください。伊万里焼風に描かれた、青と赤、そして金の装飾。白い陶器の肌には、牡丹のような花と、チェロのような弦楽器を持った西洋人が描かれています。

 磁器を作れなくても、無理やり陶器で作ってしまう職人の意地のようなものが見えます。

黒いデルフト陶器(c1695 – 1715)。柄は日本風で色彩豊か。

 中には、黒い下地のデルフト陶器(blackware)もあります。解説文によると、ヨーロッパで漆器(lacquerware)がとても流行していたので黒い陶器製作が推進されたが、ただし、黒い色絵の具(enamel)は製作するのがたいへん難しかったため、黒いデルフト陶器は “extremely rare(死ぬほど珍しい)” そうです。

 漆器まで陶器で表現しようとするなんて、めちゃ面白い!

 

 ……と、ここまで変わり種のデルフト焼を紹介したのですが、デルフト陶器としてよく見る陶器は青と白のものが多いです。

青と白の理由:デルフト陶器の歴史

 これには、デルフト陶器が生まれた理由が関わっています。

青と白のデルフト陶器が多い理由
  1. 歴史要因:アントワープから伝わったマヨリカ焼の技術
  2. 至近要因:青花(中国磁器)という絶対的ブランド力
  3. 技術要因:青いコバルト染料の安定性

 

デルフト焼はどこから来たか?:アントワープから伝わったマヨリカ焼

 まずは、デルフト焼の歴史的流れを見ていきましょう。

ラスター彩陶器〜デルフト陶器までの陶器製作技術の伝搬経路(地図)
年代陶磁器の種類詳細
唐代(618〜907)白磁唐(中国)から輸出
9世紀頃〜錫白釉陶器
ラスター彩陶器
アッバース朝(イラク)で誕生。
中国産の陶磁器を模した陶器。
13世紀頃〜イスパノ・モレスクイスラム王朝支配下のスペインで製作。
錫白釉陶器を下地にした色彩豊かな陶器。
14世紀頃〜マヨリカ焼イタリア・ルネサンスで完成。
シチリア島をはじめ、各地で製作。
名前は、マヨルカ島を経由して伝わったため。
16世紀初頭マヨルカ焼イタリア陶工がアントワープに移住。
16世紀後半〜デルフト陶器戦火を逃れて、陶工がデルフトに移住。

 イスラム王朝である、アッバース朝で生まれた錫白釉陶器は、同じくイスラム支配下にあるスペインを通じて、イタリアに伝わり、マヨリカ焼として発展。それがデルフトに伝わりました。

 焼き上がった陶器は、本来、ざらざらとした質感で、色は土色。

 ここで役立つのが、錫白釉という釉薬です。はるか遠く、イスラム世界から時代を超えて伝わった錫白釉は、焼き上げると白く濁る性質を持ちます。デルフト焼では、これを、磁器のような白い肌を作るのに使いました。

 最初は、デルフトでも、マヨリカ焼のスタイルで作られていましたが、当時、ヨーロッパで流行していた中国磁器の影響を受けて、独自の陶器を発達させていきます。

1.5mくらいありそうな陶器のタワー。「なんだこりゃ?」と思っていたら、チューリップ用の花瓶でした!
1.5mくらいありそうな陶器のタワー。「なんだこりゃ?」と思っていたら、チューリップ用の花瓶でした!

 

ヨーロッパの流行:青花(中国磁器)という圧倒的ブランド力

アムステルダム国立美術館で撮影した中国磁器青花。ちょっと写真が悪いですが。

 大航海時代。ポルトガルからもたらされた中国産磁器は、ヨーロッパの上流階級の心を鷲掴みにしました。とても薄い作りにも関わらず、硬くて丈夫。透明感のある白い肌。

 中でも、青と白の色彩で作られた青花は、明の時代から盛んに作られるようになり、当時のヨーロッパ人に刺さったようです。17世紀前半だけでも300万点以上の中国産磁器がヨーロッパにもたらされました。

 デルフト陶器は、当時人気だったこの青花を模して、作られました。

 中国の海禁政策により、中国からの輸入が減ったこと(1647年:12.5万点 → 1652年:1.5万個)も影響して、17世紀後半に広大なシェアを獲得しました。イギリスのメアリ2世もデルフト陶器の熱狂的なコレクターであったことが知られています。

 最盛期には、デルフト内に32の工房がありました。さらに、デルフト以外の地域、ホラント州だけでも80以上の工房があり、人気にあやかって、デルフト焼きを名乗ったといいます。

 

デルフト陶器の工夫と技術:青いコバルト染料の安定性

The Papeneiland
The Papeneiland(アムステルダム)

 デルフト陶器は、磁器の質感に近づけるため、白く、薄くするための工夫を凝らしています。

デルフト陶器の特徴
  • の追求:表裏の両面に錫釉を施すことで、中国磁器の「白」を擬似的に再現
  • 薄さの追求:デルフトの粘土にマール(石灰質粘土)を混ぜることで、より薄く精巧な成形が可能に

 デルフト陶器が、マヨリカ焼と差別化できた一番の特徴はその薄さです。

 デルフト陶器は、地元の粘土に石灰質粘土マールを混ぜることで、陶器特有のぼってりとした厚みを減らし、錫白釉を陶器の表裏に塗ることで、磁器の白さを出しました。

 その上で、少ない量で鮮やかな青色が出る、コバルト染料を使って絵を描くことで、青花を再現しました。コバルト染料は、高い温度でも色がとばず、焼成条件に左右されないため、重宝されました。

 白と青だけで描かれているからこそ、完成された美しさがあります。

 

参考①:デルフト陶器の製造工程

一発勝負でこれ書いているのはえぐい!凄すぎる!
下絵はあるにしても、一発勝負でこれ描いているのはえぐい!凄すぎる!
  1. 胎土の調整:各地の粘土を洗浄・混合し、石灰質のマールを加える
  2. 成形:ろくろによる回転成形、あるいは型を用いた鋳込み成形 。
  3. 素焼き:約990℃前後の大火で一度焼き、硬く多孔質の状態にする 。
  4. 施釉:不透明な錫釉薬の樽に器を浸す。乾燥した釉薬は脆い粉末状であり、その上への絵付けは一切の修正がきかない一発勝負であった 。
  5. 絵付け:酸化コバルトの顔料を用いて、熟練した絵師が直接描く。この際、描いた直後は灰色に見えるが、焼成後に青に変わる 。
  6. 鉛釉の塗布:輝きと深みを増すため、さらにその上から透明な鉛釉をかけることがある 。
  7. 本焼き:再び窯に入れ、約1040〜1080℃で焼き上げる 。

 

参考②:デルフト陶器の製造工程

中国磁器
(景徳鎮・青花)
日本の伊万里焼
(有田)
デルフト陶器
主な原料カオリン(白土)
陶石 
陶石(泉山など)
カオリン 
粘土
(地元産、ベルギー、ドイツ混成) 
分類硬質磁器硬質磁器錫釉陶器
温度約1250〜1400℃約1300℃約1000℃前後
構造完全な硝子化完全な硝子化多孔質
(釉薬がないと水漏れ)
装飾の主成分コバルト
(下絵付け)
コバルト(下絵)
色絵(上絵)
コバルト
錫釉
色絵の具

 

 

デルフト陶器の衰退:ヨーロッパ産磁器の台頭

伊万里系の装飾に完全ヨーロッパの絵が描かれた壺
伊万里系の装飾に完全ヨーロッパの絵が描かれた壺。

 元からわかっていた話ですが、デルフト陶器は、磁器の模倣によって生まれたため、本物の磁器には敵いません。

 デルフト陶器が廃れたのは、次の4つの理由があります。

デルフト陶器が衰退した理由
  1. 磁器の台頭:1709年、ドイツのマイセンで、ヨーロッパで初めて磁器の製造に成功したこと。これを機に、ヨーロッパ各地で磁器製造が広まります。
  2. 産業革命:産業革命の始まる1750年頃、イギリスで、淡いクリームのような色合いの陶器「クリームウェア」の大量生産が始まったこと(ウェッジウッドなど)。
  3. 関税の付加:イギリスやフランスは、自国の陶器産業保護のため、輸入陶器に高い関税をかけたこと。
  4. 流行遅れ:デルフトの陶工たちが、伝統的なシノワズリに固執した結果、18世紀後半の新古典主義の流れについていけなかったこと。

 

 

 とはいえ、完全になくなったわけではありません。

フィンランドへも伝わったマヨリカ焼の系譜

 イタリア・ルネサンスで発展したマヨリカ焼が伝わった先はオランダだけではありません。

 16世紀にフランスやドイツにも伝わり、「ファイアンス」と呼ばれるようになります。18世紀初頭には、スペインでマヨリカ焼のスタイルが流行するなど、時代を超えて愛されていました。

 

アラビアのマヨリカ焼タイル

 19世紀後半のフィンランドでも、マヨリカ焼のタイルが暖炉の素材として使われていました。現在、フィンランドを代表する陶磁器メーカーであるアラビアも、初期の頃には、マヨルカ焼のタイルを大量に製造していたことが知られています。

 つまり、デルフト陶器とアラビアは、同じ陶器の流れを汲む兄弟のような関係であったと言えます。

 えっ、無理矢理すぎるって?

 じゃあ、いとこ。従兄弟くらいの関係で!

 

勝手にデルフト陶器 VS. アラビア

 というわけで、勝手にデルフト陶器とアラビアを比較してみました。

デルフト陶器アラビア
価値観歴史的装飾、一点もの機能主義、ミニマリズム
色彩伝統的な青と白素材の色と鮮やかな原色
設計鑑賞価値の高い複雑な造形 収納性、耐久性など
製造方法職人の手描きの尊重 デザイナーによる高品質な量産

 こうして並べてみると、陶磁器メーカー同士でも、美しさに対するアプローチの違いが現れている気がします。

 

 

モチーフと生活への祈り

 絵画に描かれたシンボルが、意味(寓意)を持つように、デルフト陶器に描かれた絵にも意味が込められていました。

デルフト陶器のシンボリズム
  • ザクロ:内部に多くの種を持つことから、キリスト教的には、教会の団結やキリストの復活。世俗的には子宝、繁栄、豊饒の象徴 。
  • チューリップ:当時のオランダの富と繁栄を象徴する一方で、その花の命が短いことから、美や物質的富の儚さを警告する意味も込められていた 。
  • :人生の航路、冒険心の象徴
  • :自由、魂の昇華、あるいは美しさ 。
  • 風車と運河:愛国心と、国民のアイデンティティの表れ 。

 

 

唯一残ったデルフト陶器:ロイヤル・デルフト

 栄華を極めたデルフト陶器も徐々に廃れ、かつては30を超える窯があったようですが、現在残っているのは一つだけ。

 1653年に創業した、デ・ポーセレイン・フレスです。

(2020年までは、デルフト・パウー社もありましたが、コロナ禍で破産)

 1879年にJoostヨースト Thooftトーフトがこの工房を買い取り、イギリス陶器の配合を取り入れて、落ち目だったデルフト陶器を復興させました。その功績から、1919年にオランダ王室から、ロイヤル(Koninklijk)の称号を授与されたことで、現在では、ロイヤル・デルフトと呼ばれています。

ロイヤル・デルフトのマークを、私が手書きで書き写したもの
ロイヤル・デルフトのマークを、私が手書きで書き写したもの

 ロイヤル・デルフトは、1879年以降、すべての手描き製品に以下のマークを施しています。

ロイヤル・デルフトの見分け方
  • 中央…小さな壺の絵+その下に「JT」(Joost Thooft)+一番下に「Delft」
  • 左側…絵付師のイニシャル
  • 右側…年号コード。1879年の「A」から始まり、1904年が「Z」、1905年からは「AA」のように2文字のコードが使われる。

 

 

まとめ

Hotel Nhowのデルフトスタイルの陶器のポットとコップ。アレンジを加えながら、現代でも愛されている
Hotel Nhowのデルフトスタイルの陶器のポットとコップ。アレンジを加えながら、現代でも愛されている
デルフト陶器の特徴
  • デルフト陶器は、中国や日本の磁器をマネして生まれたヨーロッパの陶器
  • 青と白の色彩は、中国の青花という憧れのデザインを再現したもの
  • 陶器でありながら、錫釉と土の工夫により、磁器のような白さと薄さを実現した
  • 青色には、焼いても色が安定するコバルト顔料が使われた
  • 技術と様式は、イスラム世界からヨーロッパへと受け継がれてきたもの
  • デルフト陶器は、アジアとヨーロッパをつないだ歴史を伝えている

 ここまで読んでいただいて、ありがとうございます。

 

 

参考文献・サイト

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